その日、私は初めてノアのファンではなかった。
彼の彼女だった。
そしてその事実を世界で一番先に知った人たちは、私でも、ノアでもなかった。
ファンたちだった。
午後12時30分.
会社で昼食をとって戻る途中だった。
携帯が鳴りっぱなしだった。
一、二回なら確認していただろうけど、妙に今日はやけにしつこかった。振動が止まってもまた鳴り、少し静かになったかと思えば、また画面が点いた。
私はとうとう確認しなかった。
エレベーターに乗ってから、ようやくポケットから携帯を取り出した。
メッセージは十七件。
不在着信は四件。
そして最後に届いたメッセージ。
[ノア] 記事見た?
その短い文を見た瞬間、妙に心臓が先に反応した。
私は検索欄を開いた。
名前を入力する前に検索候補が出ていた。
PLAVE ノア 熱愛説
指が止まった。
エレベーターのドアが開いた。
人たちが私の横を通り過ぎた。
私は一歩も動けなかった。
誰かが閉まりかけたドアを押さえてくれた。
「乗らないんですか?」
「あ、はい。」
私は遅れて降りた。
廊下の端の窓際にもたれて記事を開いた。
見出しからしてはっきりしていた。
[単独] PLAVE ノア、一般女性と熱愛説… 10周年コンサートを前に注目
下には写真が三枚貼られていた。
一枚目はカフェの前。
二枚目は横断歩道。
三枚目は雨の街。
私は三枚目の写真で止まった。
傘の下に二人がいた。
黒い帽子を目深にかぶった男と、その横にぴったりくっついて歩く女。
写真の中のノアはカメラを見ていなかった。
私を見ていた。
正確には、私が滑らないように肘を押さえてくれながら私を見ていた。
写真にはその手がはっきり写っていた。
私は拡大しなかった。
もう分かっていた。
あの日だった。
三年前から私たちが会っていた場所を出て、家に帰る日。
雨が降るという予報を見ていながら傘を持っていかなかった私に、ノアがずっと小言を言っていた日。
結局、自分の傘を持って出てきて、私が濡れないようにほとんど自分のほうへ傾けてくれた日。
写真の下には短い説明が付いていた。
二人は数か月前から交際を続けてきたと伝えられた。
数か月。
私はその言葉をしばらく見つめた。
それから笑いがこみ上げた。
数か月じゃなくて三年だった。
その違いを知っている人は世界に二人だけだった。
私とノア。
コメントはもう勢いよく上がっていた。
本当ならコンサート直前になんで出すんだ?
相手が一般人だっていうし、身バレしないか心配。
写真だけ見るとただの友達みたいだけど。
いや、あれは誰が見ても恋愛だろ。
ノアがあんなふうに誰かを見るのが衝撃。
私は画面を消した。
もう読みたくなかった。
なのに携帯がまた鳴った。
今度は電話だった。
画面に出た名前を確認するのに時間はかからなかった。
ノア。
私は出なかった。
呼び出し音が止まった。
しばらくしてまた鳴った。
二度目も出なかった。
三回目の電話が来たとき、私は結局通話ボタンを押した。
「なに。」
「見た?」
声はいつもより低かった。
「うん。」
「……ごめん。」
私は目を閉じた。
「なんであなたが謝るの。」
「写真、撮られたこと。」
「あなたのせいじゃないでしょ。」
「分かってる。」
「ならいい。」
少しの間、静かになった。
電話の向こうで誰かがドアを開け閉めする音がした。
たぶん練習室だ。
「今どこ?」
「会社。」
「人は多い?」
「うん。」
「一人?」
「なんで?」
返事はなかった。
私は窓の外に視線を移した。
「ノア。」
「うん。言って」
「今日、会おう。」
「だめ。」
返事があまりにも早かった。
彼が少し息をのむのが分かった。
「なんで。」
「今あなたが動いたら、もっと撮られる。」
「関係ない。」
「私は関係ある。」
今度は彼が何も言わなかった。
私は少し声を落とした。
「今週コンサートあるでしょ。」
「知ってる。」
「10周年でしょ。」
「知ってる。」
「だから今は何もしないで。」
「何もしない?」
「うん。」
「じゃあ、俺たちも?」
私は答えられなかった。
沈黙が長くなった。
彼が先に訊いた。
「それ、どういう意味。」
「ただ……少し離れていよう。」
今度は本当に何の音も聞こえなかった。
通話が切れたのかと思って画面を確認しようとした、その瞬間。
「嫌だ。」
彼の声が聞こえた。
低くて静かだった。
私は唇を閉じた。
「ノア。」
「嫌だって。」
「今どういう状況か分かってるでしょ。」
「分かってる。」
「ファンもいるし、会社もあるし、あなたは今——」
「全部分かってる。」
「じゃあ、なんで。」
しばらくしてから、返事が戻ってきた。
「俺は君がいなくなるほうが、もっと嫌だ。」
私は何も言えなかった。
彼がこんなことを言うなんて知らなかった。
いや。
正確には、こんなふうに何の準備もなく言うとは思っていなかった。
ノアは感情を簡単に見せる人じゃなかった。
少なくとも私にはそうだった。
好きなら好きだと言う代わりに覚えておいて、ある日私が好きなものを買ってきてくれたし、会いたいと言う代わりに家に着いたら連絡してと言った。
つらいと言わないくせに、私が気づくとため息をついた。
そんな人が今、私に言った。
いなくなるのが嫌だと。
私は窓に映った自分の顔を見つめた。
「私も嫌だ。」
どうにかその言葉を口にした。
「でも怖い。」
「何が。」
「もう、みんなが私を探すんじゃないかって。」
返事はなかった。
「あなたじゃなくて、私を。」
「……。」
「あなたのファンが私を探して、私の名前が出て、私がどんな人か全部突き止めようとするんじゃないかって。」
彼はしばらく黙っていた。
それから静かに言った。
「俺が止める。」
「どうやって。」
「方法を探す。」
「ノア。」
「うん。」
「そんな簡単に言わないで。」
「簡単に言ってるんじゃない。」
声が少しだけ固くなった.
「俺も分かってる。」
その言葉に、私は口を閉じた。
彼が長く息を吐いた。
「だから、余計に嫌なんだ。」
「何が。」
「君が俺のせいで怯えるのが。」
その日、私たちは結局会わなかった。
私は家に帰り、ノアは練習室に残った。
そして夜十一時を少し過ぎたころ、会社の公式見解が出た。
「アーティストの私生活に関わる部分のため、確認が難しい。」
曖昧な文だった。
否定でもなかった。
認めたわけでもなかった。
でも人々はその一文だけで、十分すぎるほど多くの話を作り上げた。
私はベッドに横たわって画面を見下ろした。
ノアからは何の連絡も来なかった。
私もしなかった。
そうして一時間が過ぎ、
二時間が過ぎた。
夜中の一時を過ぎたころ、携帯が一度鳴った。
メッセージだった。
[ノア] 起きてる?
私はしばらくして返事をした。
[私] うん。
数秒で返事が来た。
[ノア] よかった。
[私] なんで?
しばらく吹き出しが出ては消えた。
出た。
消えた。
そしてようやく届いた文。
[ノア] 今日、君が最後に言ったことがずっと気になって。
[私] 何を?
今度は返事が来なかった。
私は携帯を置いた。
でも眠る直前、また振動が鳴った。
[ノア] 俺たち別れようって言葉。
しばらくしてもう一つ来た。
[ノア] それはやめて。
私は画面を見つめた。
そしてその日、初めて知った。
熱愛説が出たことより、もっと怖いことがあるんだと。
これから私たちが何を選んでも、もう前には戻れないということ。
