新しい選手が入ってくるという噂は、サッカー部の中で思った以上に早く広まった。
「今日来るって子があの子?」
「うん。中学のときかなり有名だったらしいよ。地区大会で得点王にもなったんだって」
「でも、こことは違うでしょ。高校のサッカー部がそんなに甘い場所なわけないし」
グラウンドの片隅でストレッチをしていたリウは、後輩たちの話を聞きながらも、特に反応を見せなかった。
新しいエース。
毎年一度は聞こえてくる言葉だった。
中学で名を馳せた選手もいれば、他校からスカウトの話を受けた選手もいた。
だが、いざチームに入れば、ほとんどはそれほど経たないうちに現実を知ることになった。
個人の実力と、チームで必要とされる実力はまったく違った。
「リウ。」
コーチが近づきながら、リウの肩を軽く叩いた。
「今日新しく入ってくる2年生、いるだろ? 最初から一緒に見てやってくれ。みんなにも紹介してやれ」
「はい。わかりました」
「実力はかなりいいみたいだ。お前がうまく引っ張ってやってくれ」
リウは小さく笑った。
「僕が何かを引っ張るまでしなきゃいけないほどなら、思ったより上手いみたいですね」
「だからお前に任せるんだ」
そのときだった。
グラウンドの入口のほうから、誰かがゆっくり歩いてきた。
黒いジャージ姿で、スパイクを手に持っている。
あたりをきょろきょろ見回すこともしない。
まるで、もうここに慣れている人みたいに、そのままグラウンドの中へ入ってきた。
「あ、来た」
後輩の一人が小さくつぶやいた。
リウも自然に視線を向けた。
男はコーチの前で立ち止まった。
「イハンです」
短く、淡々とした自己紹介だった。
コーチがリウを指さした。
「こっちは3年のリウ。今シーズンの主将だ。これから気になることがあったら、リウに聞け」
リウは自然に手を差し出した。
「やあ、リウだ。主将だっていうけど、あんまり難しく考えなくていいから、わからないことがあったら気軽に聞いて」
イハンは差し出された手を少しだけ見つめた。
それから手を取った。
「はい」
「……」
リウが瞬きをした。
「終わり?」
イハンが首をかしげた。
「はい?」
「いや、普通は初対面なら名前を言い直したりするじゃん」
「さっき言いましたけど」
「聞いたよ」
「じゃあいいんじゃないですか?」
周りで笑いが起こった。
リウも結局、笑いをこらえきれなかった。
「お前、思ったより面白いな」
「よく言われます」
「褒めてないけど」
「わかってます」
初対面にしては、かなり妙な会話だった。
リウは手を離しながら、イハンを上から下まで眺めた。
思ったより体格がいい。
それに何より、目が落ち着いていた。
緊張した様子がない。
初めて来たチームで、主将にあんなに平然と答えるのも、そうあることではなかった。
「とりあえず体をほぐそう。今日は基本練習からやる」
「はい」
「それと、中学のときに上手かったって話は聞いたけど、ここでは最初からやり直すつもりでいたほうがいい」
イハンがスパイクを履き直しながら聞いた。
「どうしてですか?」
「どうしてって?」
「僕が上手いなら、わざわざ最初からやる必要があるのかなって」
その瞬間、周囲が静かになった。
リウはイハンを見て、あきれたように笑った。
「お前、本当に自信だけはあるな」
「自信じゃなくて事実です」
「そうか。その事実が本物か、直接確かめればいいな」
イハンが顔を上げた。
二人の視線がぶつかった。
リウが先に笑った。
「今日の練習試合で見せてみろ」
「はい」
「でも一つは覚えておけ」
リウの声が少し真剣になった。
「ここは一人で上手いだけじゃ成り立たないチームだ。お前がどれだけ上手くても、仲間が動いてくれなきゃ一点入れるのも難しい」
イハンはしばらくリウを見てから、短く答えた。
「じゃあ、合わせてみます」
「……は?」
「チームに合わせろっておっしゃったじゃないですか。合わせればいいんですよ」
リウはしばらく言葉を失った。
そして吹き出した。
「そうか。口はうまいな」
練習が始まって十分も経たないうちのことだった。
リウは、自分がイハンを少し見くびっていたことを認めざるを得なかった。
ボールを受けた瞬間から違った。
相手DFが寄ってくる方向を先に読んで動き、ボールを長く持たなかった。
必要なときは素早く仕掛け、パスを出すべきときは正確に味方へ預けた。
そして決定的な場面では、誰よりも速くゴール前へ飛び込んだ。
「イハン!」
リウが叫んだ。
イハンが振り向いた。
リウがスペースへ鋭くパスを通した。
イハンはボールを受けると同時に、ワンタッチでDFをかわした。
そしてそのままシュート。
バン。
ボールがゴールネットを揺らした。
グラウンドが一瞬静まり返った。
「うわ……」
誰かが小さく感嘆の声を漏らした。
リウはゴールを見てから、イハンへ視線を移した。
イハンは何事もなかったような顔でボールを拾ってきた。
「もう一回やります?」
リウが苦笑した。
「お前」
「はい」
「上手いな」
「知ってます」
「……」
リウは呆れたように笑った。
「本当に一回も謙遜しないんだな」
「上手いのに、下手だと言う理由はないじゃないですか」
「それはそうだけど、普通はそう言うと生意気だって思われる」
「先輩もそう思いますか?」
予想していなかった質問だった。
リウはしばらくイハンを見つめた。
そして口の端を上げた。
「まだわからないな」
「ならよかったです」
「なんで?」
「先輩に生意気だって言われるのは嫌なので」
今度はリウが本当に何も言えなかった。
イハンはもう別の場所へ歩いていっていた。
リウはその背中を見ながら、小さくつぶやいた。
「なんだよ、あいつ……」
練習が終わったあと。
選手たちが一人、また一人とグラウンドを出ていくあいだ、リウは一人でボールを片づけていた。
そのとき、後ろから聞き慣れた声がした。
「先輩」
振り向くと、イハンだった。
「どうした?」
「さっき言ってたことです」
「何?」
「チームに合わせるってこと」
イハンは少し言葉を選んでから言った。
「僕も、チームで戦うのが大事だってことはわかってます。だから、学ぼうと思って入ってきたんです」
リウは黙ってイハンを見た。
さっきとは少し違う顔だった。
「ならいい」
「でも一つは、先輩に手伝ってもらわないといけないみたいです」
「何を?」
「僕がこのチームでどこまでやれるか」
リウの眉が少し上がった。
「それをなんで俺が?」
「主将じゃないですか」
あまりにも当然という口ぶりだった。
リウは笑った。
「そうだな。主将だ」
「だから、教えてください」
「何を教えてほしいんだ?」
「チームとして戦う方法です」
しばらく沈黙が流れた。
リウはイハンを見てから、ゆっくりとうなずいた。
「いいよ」
それからイハンの肩を軽く叩いた。
「その代わり、俺も一つ約束する」
「なんです?」
「お前が本当にチームのエースになれるのか、俺が直接確かめてやる」
イハンがリウを見た。
「じゃあ、僕も約束します」
「何を?」
「先輩が認めるまで、ずっと見せ続けます」
リウは一瞬、何も言えなかった。
最初は、ただの新しい後輩だと思っていた。
少し生意気で、自信家で、実力のある後輩。
それだけだと思っていた。
だが、その日からリウは気づいた。
自分がこれから一番気にかけることになる相手は、
たぶん、あの後輩だということに。
そしてイハンもまだ知らなかった。
自分が本当に欲しかったものは、単にサッカー部のエースの座ではないということを。
自分がいちばん認められたかった人は、
ほかでもない、あの人だったということを。
