
書店から帰った翌日。
イハンはいつもと違って、朝から気分が変だった。
昨日リウが言った言葉が、ずっと頭の中を回っていた。
今日はただ、君と一緒にいたくて来たんだ。
サッカーのためでもなく、キャプテンとエースだからでもなかった。
ただ、自分だから。
イハンはベッドに横になったままスマホの画面を見つめ、結局メッセージを送った。
先輩。
しばらくして返信が来た。
どうした?
昨日は楽しかったです。
リウからすぐに返事が来た。
僕も。次は君が行きたい場所に行こう。
イハンはその文をしばらく見つめた。
そしてゆっくり返した。
約束です。
でも学校に着くと、雰囲気が少し変わっていた。
グラウンドの近くで、見知らぬ人がリウと話していた。
初めて見る人だった。
黒いジャージを着ていて、学校の選手たちより体格もよさそうだった。
イハンは少し離れた場所から二人を見ていた。
「リウ。」
「うん。」
「昨日話したこと、考えてみた?」
「何の話?」
「うちの学校で、君にキャプテンを任せたいって言ってた件。」
イハンの足が止まった。
リウが首を振った。
「悪いけど、俺は卒業するまでここにいるつもりだ」
「まだ決めてないじゃん。」
「決めた。」
「どうして? うちに来れば、もっといい環境でプレーできるのに。」
「知ってる。」
リウはしばらくグラウンドを見た。
「それでも、今は俺がいるべき場所はここだと思う。」
そのとき、イハンと目が合った。
リウが少し驚いた。
「イハン。」
見知らぬ男がイハンを振り返った。
「こいつがそのエース?」
「うん。」
「思ったより若いな。」
男がイハンに近づいた。
「君がイハンだよね? 俺、別の学校のサッカー部なんだけど、うちのコーチが君の試合映像を見て気にしてるんだ」
イハンは落ち着いて答えた。
「はい。」
「うちの学校に来たら、すぐレギュラーで出られるよ。今よりずっといい条件で。」
リウの表情が固まった。
「こいつには、そういう話はもう別の学校からもされてる。」
「知ってる。でも、うちは単に選手として引き入れたいわけじゃない。」
男はイハンを見た。
「君みたいに、ひとりで試合の流れを変えられる選手は、そう多くないからね。」
イハンは何も言わずに聞いていた。
そのときリウが口を挟んだ。
「イハン、行くぞ。練習始める。」
「ちょっと待って。」
イハンがリウを見た。
「どうしてですか?」
「ただ。」
「その話、聞きたいです。」
リウは一瞬、何も言えなかった。
男は笑ってイハンに名刺を差し出した。
「考えて連絡して。」
イハンが名刺を受け取ると、リウの視線がその手に向いた。
そして何も言わずに背を向けた。
「先輩。」
「何。」
「待ってください。」
「待たない。」
リウはぶっきらぼうに答えた。
「先に行く。」
イハンはその背中を見つめてから、名刺をポケットに入れた。
練習中ずっと、リウは変だった。
いつもより口数が少なかった。
パスを出すときも短く指示し、イハンがミスをしても何も言わずに流した。
結局、イハンが先に近づいた。
「先輩。」
「何。」
「怒ってますか?」
「いや。」
「怒ってる。」
「怒ってない。」
「じゃあ、なんで私に話してくれないんですか?」
リウがボールを拾い上げた。
「練習中だろ。」
「いつもと違います。」
「何が。」
「先輩が、私を避けてるところ。」
リウの手が止まった。
しばらくして、彼はため息をついた。
「……君が別の学校に行くかもしれないって」
「それは昨日も話したじゃないですか。」
「わかってる。」
「なのに、どうして急にそんなこと言うんですか?」
リウは答えなかった。
イハンが一歩近づいた。
「先輩。」
「俺も、なんでこんなふうなのか分からない。」
結局、リウが口を開いた。
「君が別の学校のやつと笑って話してるのも嫌だし、向こうで別の連中とプレーするのも嫌だし、君が俺に言ったことを別の先輩にそのままするのも嫌だ。」
イハンの目が大きくなった。
リウも、自分があまりにも正直に言ってしまったと気づいたように視線を逸らした。
「……悪い。」
「どうしてですか?」
「キャプテンだからって、君の選択に口を出してるみたいで。」
「そうじゃないです。」
「じゃあ何だ。」
イハンが静かに尋ねた。
「先輩は、私が別の学校に行くのが嫌なんでしょう。」
リウは何も言わなかった。
その沈黙が、答えのように感じられた。
練習が終わったあと。
イハンはリウを待った。
いつもみたいに先に家へ帰らなかった。
グラウンドを片づけていたリウがイハンを見つけて言った。
「まだ帰ってなかったのか?」
「待ってました。」
「どうして。」
「話したいことがあって。」
「何の話?」
イハンはポケットから名刺を取り出した。
そしてリウに差し出した。
「これ、受け取ります。」
リウの表情が固まった。
「……そうか。」
「それと、連絡もしてみます。」
「うん。」
リウは無理に平気なふりをしてうなずいた。
でもイハンは続けて言った。
「代わりに、先輩も一緒に行ってください。」
「え?」
「その学校を見に行くときです。」
リウがイハンを見た。
「なんで俺が?」
「ひとりで行きたくないので。」
「君が決めることだろ。」
「それでも、先輩がそばにいてくれたらいいなって思います。」
リウはしばらく答えられなかった。
イハンが静かに言葉を続けた。
「それに、私まだ何も決めてません。」
「……。」
「先輩が心配してるみたいに、今すぐここを出ていくつもりもないです。」
リウの表情が少し和らいだ。
「じゃあ、なんで名刺は受け取ったんだ?」
「確かめたかったんです。」
「何を?」
「自分がどこまで行けるのか。」
イハンはリウを見た。
「そして、それを確かめたあとでも私がここにいたいと思ったら……。」
少し言葉を切った。
「そのときは、先輩が何も言わなくても、私がここにいます。」
リウは小さく笑った。
「君って本当に、人の気持ちを振り回すよな。」
「どうしてですか?」
「さっきは行くと思って気分悪かったのに、今はまた行かないって言うから嬉しくなった。」
「ならよかったです。」
「……でもイハン。」
「はい。」
リウが慎重に言った。
「俺、本当に君が他のところへ行くのは嫌だ。」
そこにはもう、冗談も、キャプテンとしての責任感もなかった。
ただ一人の人間の、正直な気持ちだった。
イハンはしばらくリウを見つめてから笑った。
「知ってます。」
「何を知ってる。」
「先輩がどうして嫌なのか。」
「……。」
「私も同じですから。」
リウの目が揺れた。
「同じって、どういう意味だ?」
イハンは答えず、先にグラウンドを出た。
数歩歩いて振り返り、言った。
「来週末、一緒に行きましょう。」
「どこに?」
「その学校。」
「わかった。」
「それで終わったら、前に食べ損ねたものを食べに行きましょう。」
「何が食べたいんだ?」
イハンは少し考えて言った。
「先輩の好きなものです。」
リウが笑った。
「君は?」
「私も先輩の好きなものを食べたいです。」
そう言い残して、イハンは先に歩いていった。
リウはその背中を見ながら小さく笑った。
まだ二人の間には、はっきりと名前のついていない感情があった。
でも、一つだけは確かだった。
もう二人は、サッカーが終わったあとも互いを探していた。
