
準決勝当日。
試合会場に着いた瞬間から、雰囲気が違っていた。
決勝進出を前にした最後の試合だけあって、観客席には他校の生徒も大勢集まっており、両チームの選手たちもいつもより緊張した表情だった。
イハンは体をほぐしながら、ずっとベンチを見ていた。
リウは相変わらず足首にサポーターをしていた。
走れない状態だったが、今日は誰よりも真剣な顔で戦術ボードを見ていた。
イハンが近づいた。
「先輩。」
「うん。」
「本当に走れないんですか?」
「うん。」
「少しも?」
「少しも。」
「……残念です。」
リウが笑った。
「なんで? 俺が出てたら、お前のほうが気負ってたかもしれないのに。」
「いいえ。」
イハンはリウを見つめた。
「先輩が一緒に走ってくれたら、もっとよかったなって思って。」
リウはしばらく言葉を失った。
それからイハンの肩を叩いた。
「今日は俺がピッチの外から手伝うよ。」
「じゃあ、僕も約束します。」
「何を?」
「先輩のいるところまで、必ず行きます。」
リウが笑った。
「決勝まで?」
「はい。」
「いいよ。待ってる。」
試合が始まった。
相手は予想どおり強かった。
前半20分まで両チームとも攻め続けたが、得点は生まれなかった。
すると、相手チームのカウンターが始まった。
うちのチームの守備が一瞬崩れ、相手のフォワードがそのままゴール前まで入ってきた。
シュート。
ゴール。
0対1。
観客席から歓声が上がった。
イハンは歯を食いしばった。
「大丈夫! まだ時間はある!」
リウの声が聞こえた。
イハンは顔を上げた。
ベンチのリウが手で合図していた。
ゆっくり。
でもイハンは気持ちが焦った。
自分がどうにかして1点を取らなきゃいけないと思った。
ボールを受けるとすぐ、2人のDFの間へ切り込んだ。
1人を抜いた。
2人目のDFまで抜こうとした瞬間、体がぶつかった。
ボールを失った。
「イハン!」
リウの声が聞こえた。
イハンは歯を食いしばって、もう一度走った。
前半終了。
スコアは0対1。
ロッカールームの中は静かだった。
コーチが戦術を説明していたが、イハンはちゃんと聞き取れなかった。
頭の中では、ずっと一つの考えだけがぐるぐる回っていた。
俺が1点取らなきゃ。
リウがイハンの隣に座った。
「イハン。」
「はい。」
「今何を考えてるか、わかる。」
イハンは顔を上げた。
「何ですか?」
「自分だけで勝たなきゃって思ってるんだろ?」
「……。」
「違う。」
「でも、僕たち負けてますよ。」
「だからって、お前が一人で全部やるのか?」
リウの声が低くなった。
「俺がいないのが、そんなに負担か?」
イハンは一瞬、答えられなかった。
「そういう意味じゃ……。」
「じゃあ、何だ。」
イハンは唇を噛んだ。
「先輩がケガしてるからです。」
「ああ。」
「僕が代わりにやらなきゃって思って。」
「なんでお前が代わりにやるんだ?」
「先輩が走れないから。」
リウはしばらくイハンを見つめていた。
そして静かに言った。
「俺は、お前に俺の代わりに走れなんて言ってない。」
「……。」
「俺が望んでるのは、お前が自分のサッカーをすることだ。」
イハンは何も言えなかった。
リウがイハンの肩をつかんだ。
「それに、俺に悪いと思う必要もない。」
「……。」
「俺がケガしたのは俺の選択だったし、お前が責任を負うことじゃない。」
イハンの目が揺れた。
「だから今回は、俺を信じて走れ。」
リウが笑った。
「一人で勝とうとするな。」
しばらくして、イハンはうなずいた。
「わかりました。」
そして小さく付け足した。
「先輩を信じます。」
「俺もお前を信じてる。」
後半が始まった。
イハンのプレーが変わった。
ボールを持っても、無理に突破しなかった。
周囲を確認して、味方にパスした。
1回。
2回。
3回。
攻撃が続くほど、相手の守備が揺れ始めた。
後半15分。
イハンが中央でボールを受けた。
相手DFが2人寄ってきた。
イハンは後ろにボールをはたいた。
味方がもう一度ボールを回した。
そしてイハンが空いたスペースへ入った。
「イハン!」
パスが入った。
イハンはシュートしなかった。
ゴール前にいた味方へ、もう一度パスした。
ゴール。
1対1。
味方たちが歓声を上げた。
イハンは真っ先にベンチを見た。
リウが大きく笑っていた。
そして口の形で言った。
よくやった。
イハンはその言葉を読み取った。
試合終了まであと3分。
スコアは1対1。
このままなら延長戦だった。
相手チームが最後の攻撃を仕掛けた。
うちのチームの守備がボールをクリアした。
ボールは中央へ流れた。
イハンが走っていって、ボールをつかんだ。
前には相手DFが3人。
後ろには誰もいなかった。
以前のイハンなら、そのまま突破していただろう。
でも、今回は違った。
顔を上げた。
左に味方がいた。
右にもいた。
そして遠くで、リウが手を振っていた。
イハンは笑った。
「今度は一緒に行こう。」
ボールを左へ預けた。
そしてそのまま前へ走った。
味方が再びパスした。
イハンはDFを1人抜いた。
そして最後の瞬間。
ゴール前にいた味方へボールを流した。
シュート。
ゴール。
2対1。
試合終了。
ホイッスルが鳴った瞬間、選手たちが一斉にピッチへ駆け込んできた。
イハンもそのまま座り込んだ。
全身から力が抜けた。
でもすぐに立ち上がった。
リウのところへ行くために。
「先輩!」
リウも立ち上がっていた。
イハンが近づくと、リウが笑った。
「決勝だ。」
「はい。」
「よくやった。」
「先輩が信じろって言ったじゃないですか。」
「だから信じたのか?」
「はい。」
イハンは息を整えながら言った。
「先輩がいたから、信じられました。」
リウの表情が一瞬固まった。
イハンは汗に濡れた顔でリウを見た。
「僕、今ならはっきりわかる気がします。」
「何が?」
「僕が、なんでここにいたいのか。」
リウは何も言わなかった。
「他の学校も悪くない場所だろうし、僕にとっていいチャンスになるかもしれません。」
イハンは少し息を整えた。
「でも、僕はここにいたいです。」
「……。」
「先輩と一緒に走った、この場所で、これからも走っていたい。」
リウは静かに笑った。
「それならよかった。」
「どうしてですか?」
「俺もお前にここにいてほしいから。」
イハンはしばらくリウを見つめた。
そして慎重に尋ねた。
「先輩。」
「うん。」
「なんで僕に、そんなに優しくしてくれるんですか?」
リウの表情が変わった。
「急にどうした?」
「前から気になってました。」
「キャプテンだからだよ。」
「それだけじゃない気がします。」
「なんで?」
「他の後輩には、こうしないじゃないですか。」
リウは答えられなかった。
イハンが一歩近づいた。
「それに、僕ももうわかりました。」
「何が?」
「僕が先輩を特別に思ってるってこと。」
リウの目が揺れた。
「イハン。」
「はい。」
「その話は、決勝が終わってからにしよう。」
「どうしてですか?」
「俺にも言うことがあるから。」
イハンはしばらくリウを見つめ、それから笑った。
「約束ですか?」
「うん。」
「じゃあ、決勝が終わったら必ず言ってください。」
「約束する。」
その夜。
宿舎に戻ったあと、イハンは携帯を確認した。
リウからメッセージが来ていた。
足首のせいで先に入る。おやすみ。
イハンは少し考えてから返事を送った。
先輩。
うん?
決勝で勝ったら、僕に必ず言ってくれることありますよね?
しばらくして返事が来た。
ある。
何をですか?
決勝が終わったら言うよ。
イハンは笑った。
僕も言いたいことがあります。
何だ?
それも決勝が終わってからです。
しばらくして、リウから返事が来た。
じゃあ明日は絶対勝たないとな。
イハンは画面を見つめてから、ゆっくり返した。
はい。
先輩と一緒に勝ちます。
携帯を置いたイハンはベッドに横になった。
明日で大会が終わる。
そして明日には、自分がずっと悩んでいた問いにも答えを出せる気がした。
サッカーが好きなのか、リウが好きなのか。
もしかしたら、もう答えはわかっていたのかもしれない。
ただ、最後の一言を自分の口で言う勇気が、まだなかっただけだ。
そして翌日。
2人には、大会最後の試合とともに、
今まで隠してきた気持ちを口にしなければならない瞬間が訪れようとしていた。
