サッカー部に入ってから一週間。
イハンは思ったより早くチームに馴染んだ。
いや、正確に言えば、チームのほうがイハンに馴染みつつあった。
「イハン!」
グラウンドの反対側からリウが叫んだ。
イハンが顔を上げると、ボールが勢いよく飛んできた。
そのまま足を伸ばしてボールを止めたイハンが、周囲を見回した。
ディフェンダーが二人、前を塞いでいた。
「左!」
リウがもう一度叫んだ。
イハンは反射的に左へ体をひねった。
その瞬間、リウが右のスペースへ走り込んだ。
イハンの足先からボールが素早く転がっていった。
リウが受けて、そのままシュートした。
ゴール。
「よし!」
チームメイトたちの歓声が上がった。
リウが振り返ってイハンを見た。
「今の、よかった。」
「先輩が左って言ったじゃないですか。」
「でも、お前がすぐ判断したんだろ。」
「じゃあ、先輩が上手く教えたってことですね。」
イハンが平然と答えると、リウはふっと笑った。
「最近の話し方見てると、俺にだんだん慣れてきてるみたいだな?」
「最初から別に気まずくなかったですけど。」
「そう?」
「はい。」
「じゃあ、なんで最初はそんなに堅く返事してたんだ?」
イハンはしばらくリウを見た。
「先輩が怖かったんです。」
「俺が?」
リウは呆れたように自分を指さした。
「僕、主将ですし、先輩は3年生じゃないですか。」
「それで?」
「やたら親しくなってから僕がミスしたら、何か言われそうで。」
リウはしばらく言葉を失った。
「俺、そんなに怖い人じゃないぞ。」
「今は分かってます。」
「今は?」
「はい。」
「じゃあ最初は怖かったってことか?」
「少しだけです。」
リウは吹き出した。
「お前、本当に正直だな。」
「嘘をつく理由がないので。」
「そうか。そういうのは気に入った。」
その言葉に、イハンの表情がほんの少し固くなった。
リウはその変化を見逃さなかった。
「どうした?」
「いえ。」
「なんだよ。」
「別に。」
イハンはボールを拾い上げた。
「先輩に上手いって言われると、なんか変な気分になるんです。」
「なんで変なんだ?」
「分かりません。」
その言葉を残して、イハンは先に背を向けた。
リウは遠ざかっていくイハンの背中を見つめた。
おかしいのは、自分も同じだった。
最近、イハンが自分の言うことを妙に素直に聞くのが気になっていた。
それに、自分もまたイハンがどこにいるのか、ずっと確認していた。
練習の時も。
休憩の時も。
しまいにはグラウンドを出る時まで。
「今日は練習試合をやる。」
コーチの言葉に、選手たちが一人二人と集まった。
「主将、チーム分けろ。」
リウがうなずいた。
選手たちを見渡していたリウの視線が、イハンで止まった。
少し考えたリウが言った。
「イハンは俺と同じチーム。」
「なんでですか?」
イハンがすぐに聞いた。
リウは笑った。
「なんでって。お前が上手いから。」
「僕、反対側に置いたほうがもっと面白いじゃないですか。」
「俺と当たりたいのか?」
「はい。」
「自信あるのか?」
「なかったら、ここに来てません。」
周りで笑いが起こった。
リウは首を振った。
「よし。じゃあ次のゲームでは反対側に回してやる。」
「次じゃなくて今は?」
「今日は俺がどれだけお前に合わせられるか見たいから。」
「僕が先輩に合わせるべきなんじゃないですか?」
「どっちも合わせるんだよ。」
リウがイハンにボールを渡した。
「俺たちは同じチームだから。」
その言葉に、イハンはしばらくボールを見た。
大した言葉じゃなかった。
なのに、妙に心に残った。
試合は思ったより激しかった。
イハンの実力を警戒する相手チームの守備は荒くなり、イハンも簡単には引かなかった。
「イハン!」
リウの声が聞こえた。
イハンは顔を向けた。
リウが自分に向かって走ってきていた。
パスするか。
それとも自分で突破するか。
一瞬迷ったイハンは、リウにボールを預けた。
リウがそのまま受けて走った。
一人。
二人。
そして最後のディフェンダーを前にして、再びイハンへパスした。
「行け。」
ボールを受けたイハンは、そのままゴールへ向かった。
シュート。
ゴール。
ホイッスルが鳴った。
「よし!」
リウが笑って近づいてきた。
「今のパス、よかった。」
「先輩がまた返してくれるって分かってました。」
「どうして分かる?」
「先輩は、僕が一人で決めるより、みんなで作るほうが好きだから。」
リウの表情が一瞬止まった。
「お前、俺のこと観察してたのか?」
「たくさん見てました。」
「サッカーを?」
イハンは答えなかった。
その短い沈黙が、妙に長く感じられた。
リウが先に視線をそらした。
「もう一回始める。位置につけ。」
「はい。」
二人は再びグラウンドへ戻った。
その日の練習が終わるまで、リウは妙にイハンの視線を意識していた。
そしてイハンもまた、リウが自分を見るたび、無駄に心臓が速くなるのを知らないふりをした。
「イハン。」
グラウンドを片付けていたリウがイハンを呼んだ。
「はい。」
「明日の朝、早く出てこれるか?」
「何時ですか?」
「6時。」
イハンは目を細めた。
「なんでですか?」
「個人トレーニング。」

「先輩とですか?」
「うん。」
「二人で?」
リウは笑った。
「なんだ、嫌か?」
イハンは少し考えてから首を振った。
「いえ。」
「じゃあ、また明日な。」
リウが先に背を向けた。
数歩行ったところで、リウはもう一度振り返った。
「それと。」
「はい?」
「あんまり期待するなよ。」
「何をですか?」
「俺が特別に見てやること。」
イハンは小さく笑った。
「僕も先輩に特別に見てくださいなんて言った覚えはないですけど。」
「じゃあ?」
イハンはリウを見た。
「僕が先輩にとって特別な後輩になるのは、いいじゃないですか。」
リウの足が止まった。
だがイハンは平然とバッグを片付けていた。
「また明日、先輩。」
リウはしばらくその場に立ち尽くしていた。
そして一人、小さくつぶやいた。
「……あいつ、最近なんなんだ。」
まだ知らなかった。
翌朝の二人だけの練習が、
互いを意識し始めた最初の瞬間になることを。
