朝の6時。
まだグラウンドには誰もいなかった。
イハンはサッカーボールをつま先で転がしながら、グラウンドの入り口を見ていた。
時計を確認した。
6時01分。
6時02分。
6時03分。
「……遅いのかな。」
普段なら誰よりも先に来ているはずの人だった。
でも今日は妙に落ち着かなかった。
リウと二人きりで練習すると思うと、思った以上に気になった。
6時07分。
グラウンドの入り口から、誰かが走ってくるのが見えた。
「イハン!」
リウだった。
いつもより少し乱れた髪と、急いで着たようなトレーニングウェア。
イハンは自分でも気づかないうちに、リウをずっと見ていた。
「ごめん。だいぶ待った?」
「7分くらいです。」
「朝から正確だね。」
「先輩が先に出てこいって言ったんじゃないですか。」
リウは息を整えながら笑った。
「だから、ごめんって。」
「大丈夫です。」
「でもお前、もしかして俺が来ないかと思って待ってたんじゃないよな?」
「まさか。」
「それならよかった。」
リウはボールを受け取った。
「じゃあ、今日はお前の足りない部分だけ集中的に見るから。」
「僕に足りないところがあるんですか?」
「あるに決まってるだろ。」
「何ですか?」
リウはイハンを見た。
「一人でやろうとしすぎ。」
イハンの表情がこわばった。
「一人のほうが楽なんです。」
「サッカーは一人でする競技じゃないだろ。」
「分かってます。」
「分かってるのに、なんでずっと一人で行くんだ?」
イハンはしばらく答えなかった。
リウはボールを足元に置きながら言った。
「お前がボールを持つと、DFが2、3人つく。そうなると、どれだけ上手くても結局止められる。そんな時は周りを信じて、ボールを預けなきゃいけない。」
「……。」
「それから、また受け取る。」
イハンはリウを見た。
「先輩にパスしたら?」
「じゃあ俺がまた返す。」
「本当ですか?」
「なんでそんなに信用しないんだ?」
「先輩はたまに一人で片づけるじゃないですか。」
リウはふっと笑った。
「それはキャプテンだからだよ。」
「じゃあ今日はキャプテンじゃなくて、ただの先輩でお願いします。」
リウの表情が一瞬止まった。
「は?」
「僕もただの後輩でいます。」
「……。」
「難しいですか?」
リウは笑った。
「いや。むしろそっちのほうが難しいな。」
「どうしてですか?」
「お前のことが、いつもより余計に気になりそうだから。」
イハンの目が少し大きくなった。
でもリウは平然とボールを前へ転がした。
「さあ、始めよう。」
1時間近く、練習は続いた。
イハンはリウに言われた通りに動いた。
最初は、ただのパス練習だと思っていた。
でも、おかしかった。
リウは自分の動きをやけに分かっていた。
「右。」
イハンは右へ動いた。
「いや、今じゃなくて一拍遅らせて。」
「こうですか?」
「うん。お前が早く動きすぎると、相手に意図を読まれる。」
リウは後ろからイハンの位置を整えた。
「ここ。」
指先がイハンの肩に触れた。
「ここで待って、俺が合図したら入る。」
近かった。
思った以上に、ずっと近かった。
イハンはとっさに体をこわばらせた。
「どうした?」
リウが聞いた。
「いえ。」
「集中しろ。」
「しています。」
「じゃあ、なんで顔が赤いんだ?」
イハンはすぐに顔をそらした。
「暑いからです。」
「今、朝だけど?」
「運動したじゃないですか。」
「そう?」
リウは笑った。
「じゃあ続けよう。」
イハンはもう一度前を見た。
でもおかしいくらい、心臓がずっと速く打っていた。
サッカーのせいじゃないと認めたくなかった。
「少し休もう。」
リウはベンチに座った。
イハンも隣に座った。
二人の間には少し距離があった。
リウが水筒を差し出すと、イハンはそれを受け取った。
「ありがとうございます。」
「お前、水あんまり飲まないだろ。」
「大丈夫です。」
「大丈夫じゃない。運動中に水を飲まないと、すぐバテる。」
「先輩がずっと気にかけてくれるから、飲むんですよ。」
「じゃあ、これからもずっと気にかけなきゃな。」
リウが冗談っぽく言った。
イハンは水筒を置いた。
「先輩って、いつも後輩の面倒を見てるんですか?」
「ん?」
「僕以外の人も。」
リウは少し考えた。
「そうだな。キャプテンだから、基本的にはな。」
「じゃあ僕も、ほかの人と同じですか?」
イハンの声はいつもより少し低かった。
リウはその言葉を聞いて、イハンを見た。
「どうして急にそんなこと聞くんだ?」
「ただ、気になっただけです。」
「お前は、ちょっと違うな。」
「どういう意味ですか?」
「お前は、俺が特に気にかけなきゃいけないだろ。」
「どうして?」
リウは笑った。
「エースだから。」
「サッカーの話なんですね。」
「サッカー以外に何があるんだ?」
イハンは何も言わなかった。
聞かなきゃよかったと思った。
そんなイハンを見て、リウが聞いた。
「でも、お前だって俺に気になること、結構あるだろ?」
「何がですか?」
「サッカー以外で。」
「……。」
「毎日俺を見てるの、知ってるんだぞ。」
イハンの手が止まった。
「いつもなんて。」
「練習中も見るし、試合が終わってからも見るし。俺がほかのやつと話してると、何回かこっち見てただろ。」
「先輩がキャプテンだからですよ。」
「本当に?」
「はい。」
「じゃあ、俺に気があるわけじゃないんだ?」
リウは笑いながら、冗談っぽく聞いた。
イハンはしばらく答えなかった。
それから、小さく言った。
「……あったら、だめですか?」
リウの笑みが止まった。
「え?」
イハンは、自分が何を言ったのか、遅れて気づいた。
「いえ、サッカー的にです。」
「ああ。」
リウは小さく笑った。
「うん。サッカー的にはあっていいよ。」
「……はい。」
「でも今のは、ちょっと驚いた。」
「僕もです。」
「なんで?」
「あんなことを言うとは思わなかったので。」
二人の間に短い沈黙が流れた。
リウが先に立ち上がった。
「行こう。」
「どこに?」
「また練習。」
「もうですか?」
「どうした、俺ともっと座っていたいのか?」
「……いえ。」
イハンはつられて立ち上がった。
リウは笑った。
「そういう顔には見えないけど。」
「先輩って、本当に人をからかうの好きですね。」
「お前がちゃんと反応してくれるからな。」
「次からはしてあげません。」
「そしたら俺が寂しいな。」
イハンは答えなかった。
でも、先を歩くリウの姿を見て、ほんの少し笑った。
その日の練習が終わるころ。
イハンは一人残って、ボールを片づけていた。
リウは先に帰ると言った。
でも、なぜか物足りなかった。
普段なら、早く家に帰りたかったのに。
今日はグラウンドがやけに静かだった。
その時、携帯が鳴った。
[リウ先輩]
家に着いたら連絡して。
さっき足首が少し気になる感じだったから、大丈夫か確認したくて。
イハンはメッセージをしばらく見つめた。
大したことのない言葉だった。
でも、なぜか笑いがこみ上げた。
返信を入力した。
はい。先輩も気をつけて帰ってください。
送ろうとして、また消した。
それから、書き直した。
先輩も家に着いたら連絡してください。
送信。
しばらくして返信が来た。
なんで? 俺のこと心配してるの?
イハンは画面を見ながら、しばらく悩んだ。
それから短く返した。
はい。
今度はすぐに返信は来なかった。
数分後。
……お前、今日はどうしたんだ?
イハンはふっと笑った。
僕にも分かりません。
その夜。
リウとの会話窓を閉じたイハンは、ベッドに横になって天井を見上げた。
おかしかった。
サッカー部に入って、たった1週間しか経っていないのに。
なのに、いつの間にか自分の日常はリウを中心に回っていた。
リウが笑うと嬉しかったし。
リウがほかの人と長く話していると、妙に気になった。
そして今日みたいに近くにいると、心臓が変に跳ねた。
イハンは目を閉じた。
これがただ先輩を尊敬しているだけだと思いたかった。
でも心のどこかでは、もう分かっていた。
自分がリウを見つめる理由が、
サッカーだけじゃないということを。
