
地域予選大会の一週間前だった。
グラウンドの片隅には大会のトーナメント表が貼られていて、選手たちは休憩時間ごとにそこへ集まり、相手チームを確認した。
今回の大会は、ただの校内試合ではなかった。
地域内のいくつもの学校が参加し、決勝まで進めば全国大会の出場権をかけて競うことができた。
それだけに、チームの空気もいつもとは違っていた。
コーチは練習開始前に選手たちを呼び集めた。
「今回の大会では、個人の実力より組織力のほうが重要だ。特にうちは攻撃力が強いぶん、守備への切り替えが遅い方だから、誰か一人でも自分の欲を出せばすぐ隙ができる。」
リウが選手たちを見回した。
「みんな、聞いたな?」
「はい!」
「今回は俺があまり口を出さない。各自、自分の役目だけきっちりやってくれ。」
イハンがリウを見た。
昔なら、あの言葉は気に入らなかっただろう。
自分は自信を持って動くのが一番得意だと思っていたから。
でも今は違った。
イハンはリウが話す戦術を一つ一つ覚えていた。
どこで自分が動くべきか。
いつパスを受けるべきか。
そして何より、リウがどこにいるかを先に確認した。
練習が始まってまもなく、問題が起きた。
先発ミッドフィルダーの一人が足首を痛め、練習を中断したのだ。
コーチはすぐに戦術を変えた。
「イハン、今日はお前が中央まで下りてこい。」
「俺がですか?」
「そうだ。攻撃だけじゃなく、中盤でリウと一緒に整えていけ。」
イハンはうなずいた。
「はい。」
リウが横で言った。
「無理するな。お前が全部解決しようとしなくていい。」
「わかってます。」
「本当か?」
「はい。」
「最近、素直だな。」
イハンがリウを見た。
「先輩が教えてくれたじゃないですか。」
「何を?」
「一人でうまくやるより、一緒にうまくやるほうが大事だって。」
リウは少しのあいだイハンを見て、それから笑った。
「それ、やっとわかってきたな。」
「その代わり、一つだけまだ聞けません。」
「何だ?」
「先輩が俺に無理するなって言うこと。」
「なんでだ。」
「先輩だって無理してるじゃないですか。」
リウはふっと笑った。
「俺がキャプテンだからだ。」
「俺ももうチームの一員ですから。」
その言葉に、リウの表情が一瞬変わった。
昔のイハンなら、絶対に言わなかった言葉だった。
練習試合が始まった。
相手は、同じ地域でもかなり強いと評価されている学校だった。
序盤は互角だった。
イハンは中央でボールを受けながら、ずっと周囲に目を配っていた。
昔なら、そのまま突破していた場面だった。
でも今回は違った。
前方でリウが動くのが見えた。
イハンはとっさにボールを押し出した。
「リウ!」
リウが受け取った。
一度。
二度。
そして再びイハンへパス。
イハンはディフェンダー二人の間を抜けてシュートした。
ゴールだった。
「ナイス!」
チームメイトたちが駆け寄ってきた。
リウが真っ先にイハンの肩をつかんだ。
「よかった。」
「今度はパスしましたよね?」
「ああ。」
「俺、うまくやりました?」
「すごくうまくやった。」
イハンはその言葉を聞いて笑った。
「じゃあ、よかったです。」
リウも笑った。
その瞬間、コーチが大声で叫んだ。
「よし! 今のプレーを大会でもそのまま持っていけ!」
二人は互いを見た。
短い瞬間だったが、二人にしかわからない合図が交わされたようだった。
だが、練習試合が終わる直前。
相手チームの選手が荒っぽいタックルを入れてきた。
イハンは避けきれず、そのまま倒れた。
「イハン!」
リウが真っ先に駆け寄った。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。」
「見せて。」
「本当に大丈夫です。」
リウがイハンの腕をつかんで起こそうとした瞬間、イハンが顔をしかめた。
リウの表情がこわばった。
「大丈夫じゃないだろ。」
「少し痛いだけです。」
「だから下がれ。」
「嫌です。」
「イハン。」
「大会まで一週間しかないじゃないですか。」
リウの声が低くなった。
「だからこそ下がるんだ。今無理して、大会に出られなくなるほうがよっぽど問題だ。」
「俺は出られます。」
「お前が決めることじゃない。」
「なんでですか?」
「お前の体だからだ。」
リウがため息をついた。
「お前がけがしたら、俺もつらい。」
イハンは一瞬、言葉を止めた。
リウは自分が何を言ったのか気づいたように、視線をそらした。
「……とにかく、先に治療を受けてこい。」
イハンは黙ってうなずいた。
練習が終わったあと。
イハンはグラウンドのベンチに座り、足首に氷の袋を当てていた。
けがは大したことなかった。
少し捻っただけだった。
それでもリウのことがずっと気になっていた。
しばらくして、リウが飲み物を持って来た。
「飲め。」
「ありがとうございます。」
リウは隣に座った。
しばらく、二人の間には何も言葉がなかった。
それからイハンが先に口を開いた。
「先輩。」
「ん?」
「俺、大会で絶対に勝ちたいです。」
「俺もだ。」
「違います。」
イハンがリウを見た。
「ただ勝ちたいわけじゃないです。」
リウが顔をそらした。
「じゃあ?」
「先輩と一緒に勝ちたいです。」
リウの目がわずかに揺れた。
イハンは静かに言葉を続けた。
「最初は、俺が一番うまければいいんだと思ってました。俺が点を取って、俺が試合を変えて、俺がうまくやればチームもついてくるって思ってたんです。」
「……。」
「でも最近は、ちょっと考えが変わりました。」
イハンは氷の袋を見下ろした。
「俺がどんなにうまくやっても、先輩がいなかったら変な感じがすると思います。」
リウはしばらく答えなかった。
それから笑って、イハンの頭を軽く乱暴に撫でた。
「お前、ずいぶん大人になったな。」
「頭を触らないでください。」
「なんで。」
「……妙に緊張するので。」
リウの手が止まった。
「俺もだ。」
「何がですか?」
「お前にそんなこと言われると、俺も緊張する。」
イハンが顔を上げた。
二人の視線がぶつかった。
今度は、どちらも先に逸らさなかった。
大会前日。
最後の戦術練習が終わったあと、リウが選手たちを呼び集めた。
「明日の初戦は簡単じゃない。相手は俺たちより体格もいいし、守備も強い。」
少し選手たちを見渡してから言った。
「でも、俺たちは準備してきた通りにやればいい。」
イハンは静かにリウを見た。
リウが最後に言った。
「それと、もし試合中に俺がミスしたら。」
選手たちが笑った。
「キャプテンでもミスすんのか?」
リウは笑って答えた。
「人間だからな、するだろ。」
そのときイハンが言った。
「俺がカバーします。」
リウがイハンを見た。
「何?」
「先輩がミスしたら、俺が止めます。」
「お前はお前の心配をしろ。」
「俺、うまいですよ。」
「だからこそ、なおさら頼もしい。」
チームメイトたちは二人を見て笑った。
「二人、ほんと息ぴったりだな。」
「最近ほぼ一心同体じゃない?」
イハンとリウは同時に互いを見た。
そして二人とも、黙ったまま笑った。
次の日。
大会当日の朝。
学校のグラウンドに集まった選手たちの間には、緊張感が漂っていた。
バスに乗る直前、イハンはリウを呼んだ。
「先輩。」
「ん?」
「昨日言ったこと、覚えてますよね?」
「何を。」
「今度は一緒に勝とうってこと。」
リウは笑った。
「覚えてる。」
イハンが手を差し出した。
「約束。」
リウはしばらくその手を見てから、自分の手を重ねた。
「約束。」
二人の手が触れ合った。
そして、その瞬間。
遠くでバスの出発を知らせるコーチの声が聞こえた。
「おい! 早く乗れ!」
リウが先に手を離した。
「行こう。」
イハンが後に続いた。
だが、バスに乗り込む直前、リウが振り返った。
「イハン。」
「はい。」
「今日は俺がお前の後ろを見てる。」
イハンは笑った。
「じゃあ、俺は先輩の前を見ます。」
二人は互いを見て、それから一緒にバスに乗った。
大会が始まるまで、残された時間は多くなかった。
そして今回の試合は、これまでとは違っていた。
もうイハンにとって、リウはただ一緒にプレーするキャプテンではなかった。
必ず守りたい人になっていた。
