
翌朝。
イハンはいつもより少し遅れて運動場に着いた。
だが妙にリウの姿が見えなかった。
普段なら誰よりも先に来てボールを片づけている時間だったのに。
「……どこ行ったんだ。」
スマホを確認した。
新しいメッセージはなかった。
イハンが運動場を一周見回していると、コーチが近づいてきた。
「イハン、リウから連絡なかったか?」
「はい。何かあったんですか?」
「風邪気味だから今日は練習を休むって。昨日、雨に濡れながら帰ったらしい。」
イハンの表情が一瞬で固まった。
「具合悪いんですか?」
「ただ少し熱っぽいだけだって。ひどくはないから心配するな。」
「……はい。」
そう答えたものの、イハンはずっとリウのことが気になっていた。
昨日までは元気だった人だった。
雨はかなり降っていたが、傘もあった。
なのに、どうして体調を崩したんだ。
練習は始まったが、集中できなかった。
ボールを持っても、何度もリウのことを考えてしまった。
いつもならこのあたりでリウがパスをくれていたはずなのに。
ここで動けと言っていたはずなのに。
イハンは結局、練習が終わるやいなやスマホを手に取った。
さんざん悩んでからメッセージを送った。
先輩、かなり具合悪いんですか?
返事はしばらく来なかった。
イハンはスマホを置いた。
そしてまた手に取った。
既読もついていなかった。
結局、ため息をついた。
「……ほんと、気になるな。」
その日の夜。
リウはベッドに横になっていた。
熱は少し下がったが、体が重かった。
スマホを確認すると、イハンからのメッセージが見えた。
先輩、かなり具合悪いんですか?
リウはふっと笑った。
返事を書こうとして、少し止まった。
わざわざイハンに心配したと言わせたかった。
だからわざと少し遅れて返した。
大丈夫。ただの風邪だよ。明日にはよくなりそう。
数秒後、返事が来た。
うそみたいです。
リウは笑った。
何を見てうそだって言うんだよ?
先輩、平気なときは「大丈夫」って言いません。「元気」って言うじゃないですか。
リウの指が止まった。
本当に些細な違いだった。
でもイハンは知っていた。
お前、俺のこと観察してるのか?
はい。
なんで?
しばらく返事は来なかった。
そして少しして。
先輩だからです。
リウはそのメッセージを見て、しばらく画面を見つめていた。
妙に胸がくすぐったかった。
翌日。
リウは学校に出てきた。
まだ体調は完全には戻っていなかったが、一日中家にいるほうがよほど息苦しかった。
教室に入ると、友達が聞いた。
「おい、お前昨日体調悪かったんだって?」
「うん。たいしたことなかったよ。」
「でも顔色あんまりよくないぞ?」
「大丈夫。」
そのとき、教室のドアの前から聞き慣れた声がした。
「先輩。」
リウが顔を上げた。
イハンだった。
「お前、なんでここまで来たんだ?」
「保健室に行こうと思って。」
「保健室がどうした?」
「先輩に会いに来たんです。」
リウは一瞬、言葉を失った。
「……は?」
イハンは平然と言った。
「具合の悪い人に会いに来るのって変ですか?」
「いや、変ってわけじゃないけど。」
「ならよかったです。」
イハンはリウの前に小さな封筒を置いた。
「これです。」
「何だよ?」
「おかゆと薬。」
リウが封筒を開けてみた。
「お前、これどこで買ったんだ?」
「学校の前で。」
「わざわざ?」
「わざわざ買いますよ。先輩が具合悪いっていうのに。」
リウはイハンを見つめた。
「お前、本当に……。」
「何ですか?」
「お前からこんなのもらうと、思ったより嬉しいな。」
「それならよかったです。」
イハンは何でもないように言った。
「でも、もう一つあります。」
「何だ?」
「今日、放課後時間ありますか?」
「なんで?」
「一緒に行きたいところがあるんです。」
リウは瞬きをした。
「どこ?」
「秘密です。」
「俺、まだ病人だぞ。」
「知ってます。」
「じゃあどこに行くんだ?」
「遠くには行きません。先輩が好きそうな場所です。」
リウは疑わしげにイハンを見た。
「お前、まさか俺を連れて変なところに行く気じゃないよな?」
「そう思います?」
「お前なら十分ありそうだから。」
イハンが笑った。
「じゃあ行きませんか?」
リウは少し考えた。
そして結局、うなずいた。
「行こう。」
放課後。
イハンが連れて行ったのは、学校から少し離れた小さな書店だった。
リウは入口に立って周囲を見回した。
「ここ?」
「はい。」
「なんでここなんだ?」
「先輩、本が好きじゃないですか。」
リウはイハンを見た。
「俺が本好きなの、どうして知ってる?」
「昼休みのたびに本を読んでましたよ。」
「そこまで見てたのか?」
「はい。」
「お前、本当に俺のことよく見てるな。」
「……。」
イハンは答えず、書店の中へ入っていった。
リウはその背中を見て笑った。
「イハン。」
「はい。」
「俺のためにここに来たのか?」
イハンが足を止めた。
「はい。」
「なんで?」
「ただ、先輩とサッカー以外でも時間を過ごしてみたくて。」
リウは一瞬、何も言えなかった。
サッカー以外。
その言葉がずっと頭に残った。
二人はしばらく書店の中を回った。
リウは本を選び、イハンは横で静かについて回った。
それからイハンが一冊の本を手に取った。
「これ、好きですか?」
「うん。前に読んだことある。」
「じゃあ読んでみます。」
「お前が?」
「先輩が好きだって言うから。」
リウは笑った。
「お前、ほんと変だな。」
「何がですか?」
「俺が好きなものを、お前まで好きになろうとするところ。」
「嫌ですか?」
「いや。」
リウは本を受け取った。
「いいよ。」
その言葉を聞いたイハンが、少しだけ笑った。
書店を出たころには、もう日が沈みかけていた。
リウはふと空を見上げた。
「今日は天気いいな。」
「そうですね。」
二人は並んで歩いた。
サッカーの話はひとこともしなかった。
でも気まずくはなかった。
むしろ妙なくらい楽だった。
しばらく歩いたリウが、先に口を開いた。
「イハン。」
「はい。」
「俺に、他の学校の話まだしてないだろ。」
イハンの歩く速さが少し遅くなった。
「はい。」
「決めたのか?」
「まだです。」
「なんで?」
イハンは少し考えてから言った。
「先輩が待ってくれって言ったじゃないですか。」
リウは立ち止まった。
「俺が?」
「はい。」
「いつ?」
「あの日、運動場で。」
イハンがリウを見た。
「先輩が、俺がどんな人か話してくれるって言ったじゃないですか。」
リウはその言葉を聞いて、胸がひやりとした。
「まだ、その答えは見つかってない。」
「知ってます。」
「それでも待ってるのか?」
「はい。」
「なんで?」
イハンは少しリウを見つめてから、静かに言った。
「俺も先輩が、俺にとってどんな人なのか考えてるので。」
「……。」
「まだ、俺もよくわかりません。」
リウはしばらく黙っていた。
それからゆっくり笑った。
「じゃあ、俺たち二人とも同じだな。」
「何がですか?」
「お互いにとってどんな人なのかまだわからないのに、妙にずっとそばにいたくなるところ。」
イハンの目がわずかに揺れた。
「先輩もですか?」
「うん。」
リウは率直に答えた。
「俺もそうだ。」
二人の間に、少し沈黙が流れた。
イハンがおずおずと聞いた。
「じゃあ今日も……。」
「ん?」
「サッカーのためじゃないんですね?」
リウは今度は笑わなかった。
少しイハンを見てから、首を振った。
「今日は違う。」
「……。」
「今日はただ、お前と一緒にいたくて来たんだ。」
イハンの顔が少し赤くなった。
リウはそれを見て、からかうように笑った。
「なんで顔赤くしてるんだ?」
「赤くなってません。」
「赤くなってるけど?」
「先輩が変なこと言うからです。」
「俺が何したって?」
「知りません。もう……。」
イハンは視線をそらした。
「先輩がそんなこと言うから、俺、変に勘違いしそうになるじゃないですか。」
リウの笑みが止まった。
「何の勘違い?」
イハンは答えなかった。
代わりに、リウより半歩前を歩いた。
「家に帰りましょう。」
リウはその後ろをついて行きながら、静かに笑った。
そして思った。
もしかしたら、答えは思ったより近くにあるのかもしれないと。
サッカーをしなくても会いたくて、理由もなく連絡したくて、他の人と一緒にいるのを見ると気になってしまう人。
その人がイハンだった。
まだ名前をつけられていなかっただけだ。
