“本当に覚えてないんだ。”
その言葉を聞いた瞬間、ヒロインは息を止めた。ドアノブをつかんだ指先に力が入る。聞いてはいけない言葉だった。確かに、自分が聞くべき言葉じゃなかった。それでも足はその場に縫い付けられたみたいに動かなかった。覚えてない。いったい何を。誰が。なぜ。頭の中で質問が一度に浮かんだが、そのどれも口に出ることはなかった。
リビングはしばらく静かになった。ジョングクが低くため息をつく音が聞こえた。「ヒョン、でもこれってあまりにもおかしいだろ。顔を見ても、どうして俺たちのことをひとつも覚えてないんだ?」 「やめろ。」ソクジンの声はいつもより低かった。「今、ヒロインの部屋にいる。」 「寝てるんだろ。」 「いや。」今度はテヒョンの声だった。「聞いてるかもしれない。」
ヒロインは心臓がどきりと落ちた。ばれたのかもしれない。いや、もうとっくにばれていたのかもしれない。急いで一歩下がろうとした瞬間、ドアの向こうの足音が近づいてきた。ヒロインは反射的に体を回し、ベッドの方へ歩いた。平静を装わなきゃいけない。なのに手が震えた。ブランケットをつかんでベッドに腰を下ろしてから数秒もしないうちに、ドアをノックする音が聞こえた。
“ヒロインさん。”
ソクジンだった。ヒロインはわざと寝起きの人みたいに声を落とした。「はい。」 「何か不便なことがないかと思って。」 「いいえ。大丈夫です。」ドアの外はしばらく返事がなかった。その沈黙が妙に長く感じられた。ヒロインは唾を飲み込んだ。結局、ソクジンはそれ以上は聞かなかった。「そうですか。何かあればすぐ呼んでください。」 「はい。」
足音が遠ざかってから、ヒロインはようやくゆっくり息を吐いた。部屋の中は静かだった。でも、もうひとりきりだとは思えなかった。この家全体が自分を知っているみたいだった。ヒロインはさっき聞いた言葉を何度も反芻した。顔を見ても、どうして俺たちのことをひとつも覚えてないんだ。つまり、自分は昔この人たちを知っていたということだ。
でも、理屈に合わなかった。ソクジンも、ジョングクも、テヒョンも、今日初めて会った人たちだった。名前も今日初めて聞いた。なのに、どうしてテヒョンが用意してくれた水筒のメモは妙に見覚えがあったのか、どうしてブランケットの匂いはずっと前から知っていたみたいに感じたのか。ヒロインは眠る代わりに、じっとベッドに座ったまま夜明けを迎えた。
翌朝、リビングから味噌チゲの匂いがした。ヒロインはほとんど眠れないままドアを開けた。キッチンではソクジンがおたまを手にしていて、ジョングクは食卓に突っ伏したままこっくりこっくり眠っていた。テヒョンは窓際に座ってカップを持っていた。三人ともヒロインが出てきた瞬間、ごく短く視線を止めた。その短い静けさだけで、ヒロインはさらに確信した。何かがあった。
「よく眠れましたか?」ソクジンが先に聞いた。ヒロインはうなずいた。「はい。」嘘だった。ジョングクは眠そうな顔で顔を上げると、目をこすった。「顔が全然眠れてない人なんだけど。」ヒロインは一瞬、返す言葉を失った。ジョングクは冗談みたいに言ったが、視線は意外なほど真剣だった。「慣れない場所だから眠れなかったんですか?」 「少しだけ。」 「じゃあ数日いれば大丈夫ですよ。うちに慣れれば、案外楽です。」
うち。 またその言葉だった。ヒロインは食卓に座りながら聞いた。「ここって、もともとお三方で一緒に住んでたんですか?」ソクジンはスープ椀を置く手を少し止めた。ジョングクはテヒョンの方をちらっと見て、テヒョンは何も言わずカップを置いた。答えたのはソクジンだった。「長いですよ。三人で一緒に住んで。」 「家族なんですか?」 「家族みたいな関係ですね。」ソクジンは笑ったが、その笑みはどこか慎重だった。
ヒロインはスプーンを手にしても、なかなかご飯を口に運べなかった。昨日から気になっていた言葉が喉元までせり上がってくる。私のこと、知ってますか? 昔、会ったことありますか? でも、聞いた瞬間、この家にもういられなくなりそうで。妙にそれが怖かった。ジョングクはそんなヒロインの前に卵焼きの皿を押しやった。「これ食べて。ヒョンが一番自信あるやつ。」ソクジンがすぐにむっとした。「一番ではない。」 「じゃあ、一番自信ないのは何ですか?」 「お前を朝起こすこと。」ジョングクは悔しそうに口を開け、ヒロインは気づけばふっと吹き出していた。
その瞬間、テヒョンの視線が届いた。ヒロインは笑うのをやめた。テヒョンはヒロインを見ていた。昨日みたいに静かに、でも目を逸らさずに。ヒロインはその眼差しが苦手だった。自分の中から何かを探している人の目だった。結局、先に視線をそらしたのはヒロインのほうだった。
朝食を終えたあと、ヒロインは少し外に出てくると言った。荷物整理もほとんど終わっていて、近くのコンビニで必要なものを買ってくるつもりだった。ソクジンはすぐ立ち上がろうとした。「一緒に行きましょうか?」 「いいえ。ひとりで行ってきます。道も覚えるついでに。」ジョングクが玄関の方で靴を履きかけて言った。「雨降るって。傘持ってってください。」 「今日、雨ですか?」 「朝の予報では降るって。」
ヒロインはふと昨夜のメモを思い出した。雨の日は窓をあまり長く開けっぱなしにしないで。まだ雨は降っていない。なのに、どうしてこんなにその文が引っかかるのか分からなかった。玄関先の傘立てには、黒い傘、透明の傘、それから古びた紺色の傘が一本差してあった。ヒロインは妙にその紺色の傘から目を離せなかった。
「それ、使ってください。」テヒョンが言った。
ヒロインは振り向いた。テヒョンは廊下の端からヒロインを見ていた。「古いですけど丈夫ですよ。」ヒロインは傘の持ち手をつかんだ。触れた感覚が妙に懐かしかった。胸が急に苦しくなった。「この傘…」 「はい。」テヒョンはとてもゆっくり答えた。「昔、誰かが置いていったものです。」
「誰がですか?」
テヒョンは少しの間、黙っていた。そのあいだにソクジンがキッチンから出てきて、二人の様子を見た。空気がまた妙に固まった。結局テヒョンは答える代わりに視線を落とした。「知らない人です。」
嘘。ヒロインは妙にそう感じた。
でも、それ以上は聞かなかった。傘を手にして家を出た瞬間、背中の後ろでジョングクの声がした。「道に迷ったら電話してください。」 「私、番号知らないんですけど。」ジョングクは少し固まって、それから気まずそうに笑った。「あ。そうだね。」ヒロインはその様子に、思わず少し笑ってしまった。
外に出ると、空はどんより曇っていた。ヒロインはマンション前の路地をゆっくり歩いた。見知らぬ街だった。でも妙に、足は慣れた方向を知っているみたいだった。コンビニに行くつもりだったのに、気づけば路地の突き当たりにある小さな公園の前に立っていた。古いすべり台と、使い古したベンチ。そしてベンチの横に植えられた小さな木が一本。
そこを見た瞬間、頭の中でひとつの場面がぱっとよみがえった。
土砂降りの日だった。幼い自分がベンチの下でうずくまっていた。誰かが前に立ち、傘を傾けてくれていた。顔は見えない。ただ、低い声だけが聞こえた。「大丈夫。ここにいればいい。」 それから別の声。「ヒョン、この子を連れて行こう。」最後に、もう少し幼い声。「風邪をひいたらどうするの。」
ヒロインは手に持っていた傘を落とした。金属の持ち手が床に当たって鈍い音を立てた。息が苦しくなった。記憶なのか、想像なのか分からなかった。でも、先に涙がこみ上げた。いったい何なの。私、どうしたの。
そのとき、後ろから誰かが近づいてきた。「ヒロイン。」 今度はさんもちゃんも付かなかった。ヒロインはゆっくり振り返った。テヒョンが立っていた。走ってきたみたいで息が少し乱れていた。彼は落ちた傘を拾い上げ、ヒロインの前に立った。「どうしてついてきたんですか?」ヒロインの声が震えた。テヒョンは答えられなかった。代わりに、ヒロインの顔を長く見つめた。その眼差しがあまりにも苦しそうで、ヒロインは一瞬、腹が立った。どうしてそんな目で見るのか。どうして自分よりずっと長く待っていた人みたいに立っているのか。
「私のこと、知ってるんですか?」ヒロインが聞いた。「三人とも、私のこと知ってるんですか?」テヒョンの指先が傘の持ち手を強く握った。ヒロインは一歩近づいた。「昨日、聞いたんです。本当に覚えてないんだって、その言葉。」テヒョンの表情が固まった。「ヒロイン。」 「答えて。」 「今は…」 「今は何ですか。また待てって言うんですか?」
テヒョンはしばらく何も言わなかった。風が吹き、曇った空から雨粒が一つ落ちた。ヒロインの頬に冷たい感覚が触れた。テヒョンは傘を開いて、ヒロインの方へ傾けた。その動作があまりにも自然で、ヒロインはまた息が詰まった。そしてテヒョンが言った。
「俺たちが、お前を捨てたんじゃない。」
ヒロインはそのまま固まった。心臓がどんと落ちた。何も思い出せないのに、その一言だけが痛いほど刺さった。まるで、ずっと昔から聞きたかった言葉みたいに。テヒョンはヒロインの目を逸らさなかった。
「お前が、俺たちを忘れたんだ。」
次回へ続く >>>
