ソマナ家は王国でも指折りの名門貴族の家だった。
広大な領地と鉱山、数多くの農場を所有し、代々莫大な財産を受け継いできた。
だが、これほど裕福な家にも、誰にも誇れない伝統がひとつあった。
家の子どもは、定められた年齢になる前に必ず結婚しなければならない。
決められた年齢まで結婚できなかった子どもは、古い契約に従って別の貴族家へ送られる。
そしてその相手は、いつも同じだった。
ミルーズ家。
ミルーズ家もまた古い貴族の家だったが、その評判はソマナ家とは正反対だった。
使用人をぞんざいに扱い、自分たちに逆らう貴族を脅し、家の秘密を知った者を魔法で黙らせるという噂まであった。
特にミルーズ家へ嫁いだ人たちは、外部との連絡が絶たれることが多かった。
そして、戻ってきた者はほとんどいなかった。
ある冬の日。
ソマナ家の長女、ウンビにミルーズ家から婚姻要請書が届いた。
「ウンビ。」
ソマナ伯爵の執務室。
伯爵は重い表情で机の上の手紙を見つめていた。
「ミルーズ家から婚姻の申し出が来た。」
ウンビは手紙を受け取った。
彼女の指先が震えた。
「相手は……ミルーズ家の長男ですか?」
「そうだ。」
ウンビは何も言えなかった。
しばらくして、静かに口を開いた。
「お父様……断ることはできませんか?」
伯爵は首を振った。
「古い契約がある。」
そのとき執務室の扉が開いた。
「父上、何かあったんですか?」
ウンホだった。
ソマナ家の次男であり、ウンビの弟。
ウンホは二人の固い表情を見て、何かおかしいと感じた。
「姉さん、どうしたの?」
ウンビは答えられなかった。
やがて伯爵が手紙を渡した。
ウンホは内容を読んだ。
そしてウンビを見た。
ウンビは平気なふりをしていたが、手が震えていた。
ウンホは少し考えた。
そして言った。
「僕が行きます。」
ウンビが顔を上げた。
「……え?」
「僕がミルーズ家へ行きます。」
「だめ。」
ウンビがすぐに言った。
「ウンホ、あそこがどんなところか知ってるの?」
「知ってる。」
「なのに、どうして……。」
ウンホはウンビに小さく笑ってみせた。
「姉さんが行くより、僕が行くほうがいいでしょ。」
「でも、あなたは私の弟よ。」
「だから行くんだ。」
ウンビは何も言えなかった。
ウンホは父を見た。
「僕が代わりに行きます。」
長い沈黙の末、伯爵は目を閉じた。
そして、ついにうなずいた。
数日後。
黒い馬車がソマナ邸の前に止まった。
馬車から降りたのは、ミルーズ家の次女、ベリだった。
ベリは冷たい表情でウンホを見た。
「あなたがウンホ・ソマナ?」
「はい。」
「じゃあ、出発する前にひとつやることがある。」
ベリが手を上げた。
ウンホが不思議そうな顔をした。
「何を……。」
その瞬間。
紫の魔力が爆発した。
「……!」
ウンホの喉から声が消えた。
同時に、何かが喉を包み込む感覚がした。
リオンは本能的に喉に触れた。
そこには 赤い紐がひとつ結ばれていた。
まるで最初からそこにあったかのように、自然に喉を巻いていた。
ウンホは慌てたまま紐を引っ張った。
ほどけない。
言おうとして口を開くと—
「……!」
息が詰まった。
空気がまともに入ってこない。
ウンホは目を大きく見開いて、急いで口を閉じた。
胸が苦しく締めつけられる。
もう一度息を吸おうとしたが、今回も十分な空気は入ってこなかった。
ウンホは片手で喉を巻く赤い紐をつかみ、もう片方の手で胸を押さえた。
ベリはその様子を見て言った。
「沈黙の魔法よ。」
ウンホはベリを見た。
ベリが赤い紐を指さした。
「その紐が呪いの印なの。」
ウンホは苦しそうに息を整えながら、彼女をにらんだ。
「声を出そうとすると呼吸が塞がる。」
ベリは落ち着いた声で言った。
「無理に声を出そうとしないで。」
ウンホはもう一度話そうとして、やめた。
まだ胸が苦しい。
少しずつ呼吸を落ち着かせると、ようやく息が戻り始めた。
ベリが付け加えた。
「それと、もうひとつ。」
ウンホは彼女を見た。
「時間がたっても、この魔法は解けない。」
ウンホの目が揺れた。
「私が直接解くまでは。」
ウンホは自分の喉に結ばれた赤い紐を見た。
そこで初めて、自分が完全にベリの魔法に縛られているのだと悟った。
ミルーズ邸。
ウンホは部屋へ案内された。
扉が閉まった。
カチッ。
錠がかかった。
ウンホは鏡の前に立った。
鏡の中には、自分の喉に鮮やかな赤い紐が結ばれていた。
彼はその紐を引っ張ってみた。
びくともしない。
ウンホはため息をついた。
そして、慎重に言った。
「……。」
声が出ない。
もう少し力を込めて言おうとすると—
「……!」
また息が詰まった。
ウンホは急いで口を閉じた。
息を吸おうとしたが、胸がうまく動かない。
彼は机に手をつき、しばらく頭を下げた。
何度かゆっくり呼吸して、ようやく少し楽になった。
ウンホは赤い紐を見つめた。
『話しちゃだめだ。』
その日から、ウンホは沈黙の中で暮らさなければならなかった。
数日が過ぎた。
ある夜。
ウンホは壁の向こうから妙な音を聞いた。
トン。
トン。
トン。
彼が壁を叩いた。
トン。
しばらくして、小さな声が聞こえた。
「新しく来た人?」
ウンホは答えられず、壁を叩いた。
トン。
「話せないんだね?」
トン。
「私もそうだった。」
壁の向こうの声が震えた。
「ここには、あなたみたいに首に赤い紐を巻かれた人がたくさんいる。」
ウンホは拳をぎゅっと握った。
「ミルーズ家は、自分たちに逆らう人たちに沈黙の魔法をかけるの。」
そのとき廊下で足音がした。
壁の向こうの声が、急に消えた。
扉が開いた。
ベリだった。
「誰と話してたの?」
ウンホは首を振った。
ベリは彼の首に結ばれた赤い紐を見た。
そして低く言った。
「その紐が見える人は、誰も信用しないで。」
扉が閉まった。
数日後。
ウンホは屋敷を歩き回っていて、地下へ続く秘密の通路を見つけた。
不気味だったが、ウンホは降りてみた。
そこには無数の書類が積まれていた。
ウンホは文書を一枚ずつ調べた。
すると、見覚えのある名前を見つけた。
ソマナ
ウンホは文書を読んだ。
そして、衝撃の事実を知った。
ソマナ家とミルーズ家の婚姻契約は、すでにずっと前に終了していた。
だが、ミルーズ家は契約書を改ざんしていた。
彼らは古い借りを口実に、ソマナ家の子どもたちを連れ去り続けていたのだ。
ウンホの手が震えた。
『姉さんもこんな目に遭うところだった。』
そのとき背後から声がした。
「見つけたわね。」
ウンホが振り向いた。
ベリだった。
ウンホは彼女をにらんだ。
ベリは静かに言った。
「私もこの家を終わらせたい。」
ウンホは手振りで問うた。
『じゃあ、どうして僕に沈黙の魔法をかけたんだ?』
ベリは赤い紐を見た。
「ごめん。」
しばらく黙ってから言った。
「私が直接かけないと、他の人たちが疑わなかったの。」
ウンホは彼女を見た。
「それに……。」
ベリは自分の手を見た。
「この魔法を解けるのも、私だけ。」
ウンホはうなずいた。
二人はミルーズ家の嘘を世間に明かすことにした。
数日後。
ミルーズ家の大規模な晩餐会が開かれた。
多くの貴族たちが集まっていた。
ミルーズ家の当主は、ウンホを人々の前に立たせた。
「ソマナ家の次男です。」
貴族たちがざわめいた。
「首に赤い紐がある。」
「沈黙の魔法をかけられたのかも。」
ウンホは何も言わなかった。
当主は満足そうに笑った。
「ご覧ください。」
「これでソマナ家は、我が家の意向に逆らえません。」
その瞬間。
ベリが前に出た。
「父上。」
当主が彼女を見た。
「どうした?」
ベリは書類を広げた。
「この契約書は偽造です。」
会場がざわついた。
ベリは改ざんされた契約書と、ほかの証拠を次々に公開した。
貴族たちの顔がこわばった。
「これは……。」
「契約書が改ざんされてる。」
「うちの家も被害を受けてるじゃないか!」
当主が叫んだ。
「ベリ! やめろ!」
だが、ベリは引かなかった。
「もう終わりにします。」
そしてウンホを見た。
ウンホは首に結ばれた赤い紐に触れた。
ベリがうなずいた。
「ウンホ。」
ベリが前に進んだ。
「もう解いてあげる。」
ベリが手を伸ばした。
赤い紐がかすかに光った。
ベリが呪文を唱えると、紐は少しずつ緩んでいった。
そして—
ぽとり。
赤い紐がウンホの喉からほどけて床に落ちた。
次の瞬間、紐は光に変わって消えた。
ウンホは目を大きく見開いた。
慎重に息を吸い込む。
何の詰まりもない。
もう一度深く息をした。
今回も平気だった。
ウンホは自分の喉に触れた。
赤い紐は消えていた。
そしてゆっくり口を開いた。
「……ベリ。」
声が出た。
ベリはほほえんだ。
「うん。」
ウンホはしばらく、自分の声を確かめるように黙っていた。
そして言った。
「本当に……ありがとう。」
ベリはうなずいた。
「もう、その声はあなたのものよ。」
ウンホは前へ歩いた。
そして貴族たちを見た。
「私はウンホ・ソマナです。」
会場は静まり返った。
「私がここへ来たのは、姉さんの代わりになるためでした。」
ウンホは改ざんされた契約書を掲げた。
「でも、ここで知りました。」
「ミルーズ家の婚姻契約が嘘だったことを。」
彼の声が会場に響き渡った。
「もう、この嘘は終わらせます。」
ほどなくして、ミルーズ家の悪行は王室に知れ渡った。
改ざんされた契約書と、違法な沈黙の魔法の証拠がすべて公表された。
ミルーズ家は没落し始めた。
そして、ソマナ家の古い強制婚姻のしきたりも廃止された。
ウンホはついにソマナ邸へ帰ってきた。
玄関の前では、ウンビが待っていた。
「ウンホ!」
ウンホは笑いながらウンビに近づいた。
「姉さん!」
ウンビは弟の喉を見た。
赤い紐はなかった。
「本当に……なくなったのね。」
「うん。」
ウンホは笑った。
「ベリが直接解いてくれた。」
ウンビは安堵の息をついた。
「よかった。」
ウンホはウンビを見た。
「姉さんがあそこへ行かなくて、本当によかった。」
ウンビはしばらく何も言えなかった。
そして、静かに言った。
「……ありがとう、ウンホ。」
ウンホはほほえんだ。
「たいしたことないよ。」
その夜。
ウンホは自分の部屋の窓辺に立っていた。
窓を開けると、涼しい風が入ってきた。
彼はゆっくり息を吸った。
何の詰まりもない。
喉に触れてみた。
何もなかった。
赤い紐も。
沈黙の呪いも。
彼は空を見上げて言った。
「これで本当に自由だ。」
それは自分の声だった。
誰かに奪われることもなく、
誰かの許しを得る必要もなかった。
ウンホはほほえんだ。
かつて彼の喉を縛っていた赤い紐は消えた。
だが、彼はその紐を忘れないだろう。
それは、自分がウンビを守るために背負った犠牲の証だったから。
そしてやがて、人々はウンホをこう呼んだ。
沈黙を打ち破った伯爵。
ウンホはその名を聞くたび、ほほえんだ。
自分の声を取り戻した日。
同時に、古い嘘の沈黙までも打ち破ったのだから。
