数日が経っても、ドンミンとのぎこちない空気は消えなかった。顔を合わせれば短く挨拶して通り過ぎるだけだったが、あの日傘の中で交わした言葉は何度も頭に残った。
ドンミンに警告されたけれど、ソンイルキャピタルの件をそのまま放っておくわけにはいかなかった。仕事が終わってから一人で区役所の登記所に立ち寄った。法人登記簿を取り寄せてみると、代表取締役の欄に見慣れない名前が一つあり、監査役の欄には『ソンホ』という名前が書かれていた。
その名前を見た瞬間、事故のあった夜にドンミンが最後に漏らした言葉が、そのままよみがえった。
「……この車、ソンホ室長が手配したものなんですけど。」
そのブレーキを手配した人と、この帳簿の穴を作った人が同じ名前だった。偶然にしては、あまりにもぴたりと重なりすぎていた。
そしてこの会社、ソンイルキャピタルを債権調査だと言って調べているのが、ほかならぬBNDだった。ドンミンの会社が今、ソンホを調べているという意味だった。
なら、ドンミンが任されている仕事も、ただの普通の債権調査ではないのではないかと思った。ドンミンが「ソンイルキャピタル」という一言で顔色を変えたことも、「理由は気にしないほうがいいです」と線を引いたことも、また思い出した。
もしかしてドンミンも、この名前をあの日の事故と結びつけて知っているんじゃないか。
登記所を出るときは知らなかった。閲覧した記録に、自分の名前が残るということを。
*
その夜、残業を終えて事務所を出ようとしたとき、路地の入口に見知らぬワゴン車がエンジンをかけたまま止まっていた。
最初はただ通り過ぎただけだったのに、数歩歩いてから見ると、車はとてもゆっくり、同じ速さでついてきていた。
足が速くなった。振り返らないようにしていたのに、背中に冷や汗がにじんだ。もう一つ曲がれば大通りに出ると分かっていても、脚が何度も力なく崩れそうになった。
車が少しだけ速度を上げた。まるで私の歩調に合わせるように。心臓が狂ったみたいに鳴り始めた。スマホを出そうとバッグを探ったが、手が震えてうまくつかめない。走るべきか、と思った瞬間、助手席の窓がすっと下がった。
中にいた誰かがこちらを見ていた。顔は見えなかったが、視線だけは感じた。脚の力が抜けて、かえって歩みが遅くなった。このままでは大通りまで行けない気がした、その瞬間、車がわずかに歩道側へ寄った。
そのとき、誰かが腕をぐいっと引いた。
息が詰まった。悲鳴を上げようとした瞬間、聞き慣れた声がした。
「……私です。静かに」
ドンミンだった。彼が私を路地の反対側のコンビニの中へ引っ張り込んだ。ガラス越しに、そのワゴン車は速度を落とすこともなくそのまま通り過ぎていった。
*
コンビニの中でワゴン車が完全に見えなくなるのを見届けたあと、私は脚の力が抜けてその場に崩れ落ちそうになった。無意識にドンミンの腕を強くつかんでいた。
「……大丈夫ですか。けがはありませんか」
声が切羽詰まっていた。私は答える代わりにうなずくだけだった。彼は私がつかんだ手を見下ろすと、振りほどくどころか、その上に自分の手を重ねてきた。
「……驚いたでしょう、ゆっくり息をしてください」
気がついた瞬間、まず手を離そうとした。近づかないと決めていたのに、これじゃ何をしているのかと思った。けれど手が言うことをきかなかった。やっと力を入れて離そうとした瞬間、まだ脚がふらついているのが分かって、結局また力が抜けた。
「近づかない」と決めたはずなのに、この手ひとつでこんなに簡単に揺らぐなんて思わなかった。今は驚いているだけで、ほかの意味なんてないと、何度も心の中で繰り返した。
「……ドンミンさんが、どうしてここに……」
「……ただ、通りかかっただけです」
嘘だった。この時間にこの路地を通る理由なんてない人だった。ここ数日、帰り道で何度も顔を合わせたのが偶然ではなかったということだ。
「……ずっと私をつけていたんですか」
ドンミンは少しの間、黙っていた。認めも否定もしない沈黙が、かえって答えだった。
「……危ないことをして回っているからです」
「私が何をして回っているか、どうして分かるんです」
「登記所に行かれたこと、知っています」
息が詰まった。それは今日の午後、一人で行ったことだった。誰にも言っていないのに。
「……ずっと見ていたんですか」
「……心配だったからです。誤解しないでください」
そう言いながらも、彼はまだ私の手を離さなかった。コンビニの蛍光灯の下で向き合った彼の顔は、怒っているのでも安心しているのでもない、複雑な表情をしていた。
「……もう調べるのはやめてください。お願いします」
『お願いします』という言葉が、今回も妙に他人行儀だった。私は返事ができないまま、ただうつむいた。やめるとも、続けるとも言えなかった。
結局ドンミンは、小さくため息をついた。
*
コンビニを出るとき、ドンミンが家まで送ると言った。
大丈夫、一人で帰れると一度は言わなきゃと思って口を開いたのに、実際に出た言葉は「……じゃあ、大通りまでで」ですらなかった。自分でも呆れた。数歩後ろからついてくる足音は、さっきとは違って少しも怖くなかった。
大通りに差しかかる頃、彼がふいに尋ねた。
「……怖くなかったですか。あの車を見て」
「……怖かったです。今も脚が震えています」
「なのに、どうしてやめないんです」
すぐには答えが出なかった。やめればいいと分かっていても、ここで止まったら何も分からないまま、またあの日の精算のときに事故が起きる気がした。運よくもう一度生きて戻れた分、今度こそ絶対に秘密を突き止めてドンミンを救わなきゃと誓った。
「……ただ、知らなきゃいけないことだからです」
ドンミンはそれ以上問い詰めず、うなずくだけだった。別れ際、彼は低く付け足した。
「……次は一人で出歩かないでください」
家に帰って手首の時計を見た。ガラスに入ったひびの上に、まだ彼の手の温かさが残っているようだった。
