漢陽での暮らしも、いつの間にか半年を超えていた。
春の日差しが襖の隙間から差し込むようにしても、範奎は相変わらず布団の中で目を覚ませずにいた。
「日が高いのに、まだそんなことをしているんですか?」
女主人公が布団をそっとめくりながら、横目でにらんだ。
「……もう少しだけ」
範奎は目も開けないまま、かえって彼女の手首をつかみ、また布団の中へ引き寄せた。
「ちょ、これじゃ私まで……」
言い終わるより先に、範奎の腕が女主人公の腰を抱きしめた。
「……あと一刻だけ」
「さっきもそうおっしゃってましたよ」
「あのときは本気ではなく、今は本気です」
女主人公はとうとう吹き出し、その腕の中に渋々というふうに身を預けた。
「このままでは本当に日が暮れてしまいますよ」
「なら今日は一日中こうしていましょう」
「丹伊が戸を叩いて疲れて帰ってしまいますよ」
「なら明日の朝に謝ればいいのです」
そんなありえない返事にも、女主人公はあえて責めなかった。
紙障子の向こうから差し込む日差しが、二人の肩にのんびりと降り積もった。
しばらくそうして互いの息遣いだけを聞いていた女主人公が、不意に彼の胸元に顔をうずめたまま、低く尋ねた。
「……幸せですか?」
「こうして尋ねる時点で、もう答えはわかっていらっしゃるようですけど」
「それでも聞きたくて」
「……ええ。こんなに幸せでいいのかと思うほど、そうです」
*
遅い朝餉を前にしても、丹伊の視線は鋭かった。
「お二人とも、昼寝はもうとっくに済ませたのに、今から朝ごはんですか?」
「丹伊、お前も本当に小言が増えたな」
「誰のおかげで」
女主人公が負けたふりで目をそらすと、丹伊は鼻で笑いながら汁椀を置いた。
範奎はその隙に、こっそり女主人公の飯椀へ自分の分のおかずを移してやった。
「……こうされると、私、太ります」
「太っても可愛いです」
「今のが褒め言葉ですか」
じゃれ合う二人を見ながら、丹伊は首を横に振りつつも、笑いをこらえきれなかった。
「お二人を見ていると、今でも不思議です。あの記憶を失ったお客さまと、うちのお嬢さまが、結局こんなふうになられるなんて」
「丹伊、その話はもうやめて」
女主人公が気まずそうに手を振ったが、範奎はむしろ興味深そうな顔で聞き返した。
「あのときはどう見えましたか? 私はそんなに怪しく見えましたか?」
「怪しいどころじゃありませんでしたよ。毎晩こっそり出ていかれるし、玉佩はどうしてあんなに隠していらっしゃるのか。私はとっくに気づいていましたから」
「……それは知りませんでした」
範奎が咳払いして視線をそらすと、女主人公と丹伊は顔を見合わせて吹き出した。
*
朝食のあと、二人は先に祠堂へ立ち寄った。
毎月朔日には、いつもそうしていた。
香を焚いて並んで拝礼したあと、女主人公は膝を伸ばし、静かに言った。
「お父さまもお母さまも、息子さんがこんなに元気でいらっしゃるのを見たら、きっとお喜びでしょう」
「……そうだといいですね」
範奎は位牌をじっと見つめてから、ふっと薄く笑った。
「最近はここに来るたび、以前ほど気が重くありません。それが妙に申し訳なくもあり、ありがたくもあります」
「申し訳なく思うことなんてありません。お二人も、息子さんが悲しみの中だけで生きているのは望んでいらっしゃらなかったはずです」
女主人公は彼の手をそっと包み込んだ。
範奎はその手を握り返し、長いあいだ位牌の前に留まっていた。
「……それでも、こう申し上げたいです。父上、母上。私は今、本当に幸せに生きています」
女主人公はその言葉に静かに笑い、彼の肩にそっと寄り添った。
祠堂を出る道すがら、日差しがひときわ暖かかった。
*
そのまま二人は、日和がいいのを口実に市場まで足を延ばした。
織物屋の前で女主人公が美しい絹の裾に目を向けると、範奎は二つ返事でそれを買ってやった。
「そんなことしていただかなくても」
「お嬢さまに似合うものを見て、素通りするほうが、私にはよほどつらいです」
隣の店の娘たちがそれを聞いて、それぞれ範奎をちらちら見ながらひそひそ話した。
女主人公は見ていないふりをして視線をそらしたが、足取りがわずかに速くなった。
「……どうしてそんなに急ぐんですか?」
「別に。暑いでしょう」
「今の陽射し、そんなに熱くもないのに」
範奎がわざと知らん顔で笑いながら尋ねると、女主人公の耳先が赤く染まった。
「……あまりそうやって笑わないでください。憎たらしいです」
「私が何を」
とぼけた返事に、女主人公はとうとう彼の裾をそっと引いた。
「憎たらしいと言う人の手を、どうして握るんですか」
「……離したくないなら、握っているだけです」
範奎はその言葉に何も返せないまま、ただその手を少し強く握り返した。
そうして手をつないで歩いていると、菊の飾りを売る屋台の前で女主人公の足がまた止まった。
「これは別に、買わなくてもいいのに」
そう言いながらも、目はなかなかその飾りから離れなかった。
範奎は負けたふりをして代金を払い、低く笑った。
「口ではいらないとおっしゃるのに、目はずっとそちらばかり見ていましたよ」
「……見るかどうかは私の勝手でしょう」
「買うのも私の勝手ですから、お互い好きにしているだけです」
女主人公は結局、負けたふりでそれを受け取り、こっそり笑みを隠しきれなかった。
*
夕方、金有亨からの書信が届いた。
村は無事で、太賢は先ごろ朝廷で旧家の身分を認められ、これからは自分の名で生きることになり、延俊は変わらずそばを守る友として残っているという知らせだった。
「みんな、それぞれの居場所を見つけていってるんですね」
女主人公が書信をたたみながら、低く言った。
「……そうですね。私もようやく、自分のいるべき場所を見つけた気がします」
範奎が女主人公の肩をそっと抱き寄せた。
夕餉を下げたあと、二人は酒卓を挟んで座った。
「今日、市場で、後ろの娘たちが何をひそひそ話していたか、知っていますか?」
「……知りませんけど」
「顔立ちのいい旦那をお連れだって、みんな羨ましがっていましたよ」
女主人公は盃を傾けながら、わざと澄ました口調で続けた。
「悪い気はしませんでしたけど」
「悪くないということは、うれしかったということですか?」
「それはお嬢さま……いや、奥さまが勝手に想像してください」
範奎がさりげなく言い直して笑うと、女主人公の顔が真っ赤に熱を帯びた。
「その呼び方、まだ慣れません」
「慣れるまで、何度でも呼びますよ」
低く沈んだ声が、酒のせいなのかいつもよりいっそう艶やかに聞こえた。
女主人公はわざと視線をそらしたが、範奎はその隙を逃さず、彼女の指先をそっと包み込んだ。
「……どうしてそんなに見てばかりいるんですか」
「見るなとおっしゃるなら見ませんが、特にほかに見るものもないので」
「その言い方、どこかでたくさん聞いた気がします」
「記憶を失っていた頃も、お嬢さまのお顔を見る楽しみだけは忘れていませんでしたから」
女主人公はとうとう吹き出し、彼の肩を軽く押した。
押された肩は、またそっと彼女のほうへ傾いた。
夜が更けると、部屋にはほのかな灯明の火だけが残った。
「……奥さま」
低く呼ぶそのひと言に、女主人公は返事の代わりに彼の襟元をそっとつかんだ。
範奎が慎重に彼女の頬を包み、額を合わせた。
息が互いに触れ合うほどの距離だった。
「今日も、そして明日も……そばにいてくださいますか」
「……聞かなくてもいいことを、どうして何度も聞くんですか」
女主人公が先に彼の首に腕を回した。
衣の紐のあいだから、玉佩二つをつないだ飾りが小さく触れ合った。
二人の影が灯明の下でひとつに重なった。
灯明の火は細く揺れ、やがて静かに消えた。
*
翌朝、女主人公は遅くまで目を覚まさなかった。
隣を探る指先に、代わりに首にかかった飾りが触れた。
玉佩二つがひとつに結ばれたその飾りを、女主人公はそっと撫でた。
窓の外では、一晩中そこにいた北斗七星が、まだかすかに残る夜明けの空へと溶け込んでいった。
あの星を一緒に見上げた夜も、痛いほど恋しがった季節も、今はもうすべてこの部屋のぬくもりとして残っていた。
二人の春は、そうして並んで歩く日々の中で続いていた。
