黄色い太陽が笑うとき

《黄色い太陽が笑うとき》 7話

第7話 筆先に残った人




寝不足だった。 

正確に言えば、眠りにはついた。


目を閉じて、布団もかぶって、食消がろうそくを消して出ていく音も聞こえた。


それなのに、頭の中ではある人の声が一晩中消えなかった。


『おまえが私を憎むぶん、私はおまえのことを長く考えてきた。』


『あのときは……愛しているという言葉も一緒に差し出せるかもしれぬな。』


布団を頭のてっぺんまで引き上げた。 

しばらくして息苦しくなり、また押しのけた。


「愛してるなんて言葉を、何か貴重な宝飾品みたいに大事にしまっておくんだって」


私が頼んだのか。

いや。そもそも私から先に聞いたんだった。


『私を愛していますか?』


「……。」


その考えで、また布団をかぶった。


「ああ、もう。」


昨夜の私は、明らかに正気じゃなかった。 

酒を飲んだからか。たった一杯しか飲んでないのに。 

なら灯のせいだ。 

人を妙におかしくさせる赤い灯。 

それとも花火。

それとも月明かり。


何でもいい、ハン・ノアでさえなければ。


なのに、どんな言い訳を選んでも最後には結局あの顔が残った。私が何年も見ていなかった、少し申し訳なさそうで少し疲れて見えた目。


その顔で『捨てたことはない。』と言った人。


私は枕に顔を埋めた。


憎まなければならなかった。まだ。


あの人が去った理由を聞いたからといって、私がひとりで過ごした歳月が消えるわけでもないし、熱を出してうなされた日々がなかったことになるわけでもない。


それに何より—


手紙一通もなかったのは、やっぱり腹立たしかった。 

どんな事情があったとしても。


「人ってさ。手がなかったわけでもないのに」


独り言を言いながら体を起こした。


「筆だって、ちゃんと握ってたくせに」


そのとき部屋の外で、小さな笑い声が聞こえた。

私はそのまま固まった。


「……ソファよ」


「はい、アギシ」


声が震えた。


絶対に笑った。


「今、笑っただろ」


「違います」


「聞こえた」


「鳥が鳴いたのです」


「鳥が『ぷふっ』って鳴くの?」


...


やがてソファがそっと扉を開け、顔だけをのぞかせた。


「それでも昨夜よりは顔色がよくなられました」


「入れ」


ソファはおとなしく入ってきて、洗面の水を置いた。


そのくせ、何度も口元をぴくつかせていた。


私はじっと見つめた。


「何だ」


「何でもありません」


「言え」


「本当に何でも—」


「ソファよ」


結局、ソファが折れた。


「……昨夜、公子様と長くご一緒でしたよね」


手が止まった。


「長くなんて何が」


「月が中天から西へ傾くまでです」


「話が長引いただけだ」


「どんな話ですか」


「……家の話」


「家の話をしてたのに、どうしてそんなに顔が赤くなられたんですか」


私はすぐさま手で頬を覆った。


「赤くなってない」


ソファは返事をしなかった。その沈黙が余計に憎たらしかった。


「今日ハン・ノアに会っても、私がいないって言え」


「公子様がアギシを目の前で見ても、ですか?」


「……じゃあ、おまえがどうにか隠せ」


「私、公子様よりずっと背が低いのに、どうやってですか」


「……。」


話が通じない。

私はため息をつきながら、洗面の水に手を浸した。

冷たい水が指先を濡らした。


その瞬間、


トントン。


戸を叩く音がした。


「起きたか?」


指先が水の中でそのまま固まった。

ソファと私の視線が同時に戸へ向いた。


「……なんで朝っぱらから来るんだ」


思わずごく小さくつぶやいた。

外でノアが平然と言った。


「全部聞こえている」


「……。」


死にたい。


ソファが唇を噛んだ。笑わないようにしている顔だった。


私はぎゅっと目を閉じてから開いた。


「何用です」


「朝の挨拶」


「必要ありません」


「なら朝食だ」


「もう食べました」


ソファが私を見た。まだ膳は入っていない。

外で少しの沈黙が流れた。


「そうか」


ノアが、やけに真面目ぶった声で言った。


「この家では、空の器で食事をするらしいな」


私は目を閉じた。


「公子様」


「うん」


「朝から人をからかうのが、そんなに楽しいのですか」


「おまえの声が聞けたから、まあ悪くない」


「……。」


昨夜あれほど重い話をしておいて、朝からどうしてあんなふうにできるのか。本当にすごい人間だ。


「用がないならお帰りください」


「ある」


「何です」


「顔を見たかった」


私は何も言わなかった。外でもそれ以上の言葉はなかった。


しばらくして、ノアの声が少し低くなった。


「戸を開けろとは言わぬ」


いたずらっぽさの少し抜けた声だった。


「昨夜の話で気まずいのなら、避けてもいい」


「…。」


「おまえが考える時間は待つと言っただろう」


指の間を、水が静かに流れた。


「ただ」


彼が付け加えた。


「私が昨夜言ったことのせいで、今日一日まで台無しにするな」


「……公子様は、何とも思っておられないのですか」


返事は思ったより早く返ってきた。


「いや。まったく」


とても短い言葉。私は戸の外を見た。


「おまえより少しだけ、平気なふりをしているだけだ」


その言葉が妙に胸に落ちた。

外で衣擦れの音がした。


「朝食はきちんと食べろ」


そして足音が遠ざかった。私はしばらく閉じた戸を見つめていた。 

ソファが横で、ほんの小さな声で言った。


「いい方みたいですね」


「もう一回言ったら、今日は朝飯なしだ」


ソファはすぐ口を閉じた。だが口元はまだ上がっていた。

私はわざと水を強くかき回した。 

波紋がたくさん立った。心もまさにあんな具合だった。


*

その日、午前中に左議政邸から人が来た。


婚礼衣装の寸法を改めて確認し、装飾品と弊幣に必要な品々を相談するためだった。


母屋はあっという間に、絹と箱と包みに埋め尽くされた。


「袖をもう少し上げてみていただけますか」


私は黙って腕を上げた。

縫い女が、巻尺で手首から肩まで寸法を取った。

赤い絹が、私の体の上に幾重にも重なった。


婚礼衣装。


もう本当に、逃げられない形をし始めていた。

婚礼というのは、実に妙だった。

人の心は何ひとつ準備できていないのに

服と食べ物と日付だけはあまりにも着実に準備されていく。


「お似合いです」


縫い女が言った。


「お顔が白いので、赤がとても映えます」


横に座っていた左議政邸の年配の婦人が、茶碗を下ろした。


私はその女性を知っていた。


漢氏の遠縁で、大きな本家の家事に頻繁に出入りする人だと聞いていた。

彼女は私の姿を上から下までゆっくりと見た。


「お似合いではありますね」


語尾が妙だった。


「元々、顔立ちや腕前に身分の差はないものですから」


部屋の空気がほんの少し冷えた。


ソファの手が止まった。


私は鏡越しにその女性を見た。

彼女はまだ笑っていた。


「王室の絵を代々請け負ってきた家の娘だと伺いました。手先も並外れているとか」


「買いかぶりです」


「しかし、左議政邸の奥方の座は、手先だけで守れる場所ではありませんよ」


私はゆっくり体を向けた。


「肝に銘じます」


その女性は満足そうに笑った。


「そう。とても聡いと聞いていますから、言葉もよくお分かりでしょう」


言葉の意味も分かった。


おまえは下だ。

どれほど美しく、どれほど聡くても、左議政邸に入るなら自分の立場をわきまえろ。


いつも聞かされてきた言葉だった。


直接であれ、こうして絹で包まれていようと。


私は頭を下げた。


「ありがたく頂戴します」


そのとき、戸口の外から声がした。


ハン・ノアだった。


私もその女性も、同時に戸のほうを見た。


ノアは開いた戸の外の廊下に立っていた。

どこまで聞いていたのかは分からなかった。


彼は中に入ってこなかった。


女たちのいる部屋だから礼を守るつもりなのか、敷居の外に立ったまま丁重に頭を下げた。


「叔母上。お越しとは知りませんでした」


女性の表情が目に見えてやわらいだ。


「公子様。お久しぶりです」


「ええ」


ノアが笑った。


見慣れた、

誰にも文句をつけさせない笑み。


「ちょうどよいお話をなさっていたようで、私も少し聞いていました」


胃がずしんと落ちた。


わざわざ口を挟んでほしくなかった。私のせいで。

けれどノアは一度も私のほうを見なかった。

代わりに、まったく平然とした声で言った。


「左議政邸の奥方の座は、手先だけで守れる場所ではないとおっしゃいましたね」


「そのとおりです」


「では、何で守る座ですか」


女性は少し言葉を選んでから答えた。


「家の法度と体面、そして内をしっかり切り盛りする徳が必要でしょう」


ノアはうなずいた。


「ごもっともです」


私は眉間をほんの少し寄せた。

何がしたいんだ。


「それなら、よかった」


ノアが相変わらず笑顔のまま言った。


「うちの家では、私がいちばん欠けているのが法度と体面ですから」


女性の顔がこわばった。


「公子様」


「その人さえ整えて入れば、釣り合いが取れるでしょう」


私は頭を深く下げた。

笑ってはいけない。

今笑ったら大変だ。


ソファも似たような気持ちなのか、顔を床に落とし、肩に力を入れていた。


女性は咳払いをした。


「冗談が過ぎます」


「申し訳ない」


ノアはまったく申し訳なさそうでない顔で頭を下げた。

それから、ようやく私を見た。


赤い婚礼衣装を着たまま立っている私を。


彼の視線が一瞬止まった。

ほんの一瞬だった。

なのに、その一瞬がひどく長く感じられた。


「……よく似合う」


私は視線をそらした。


「まだ寸法を見ているところです」


「それでも」


彼の目がゆっくり細くなった。


「先に知っておいてよかった」


「何をです」


「婚礼の日には、しっかり気を引き締めていなければならないということを」


「どうしてです」


ノアは平然と答えた。


「花嫁を見るのに、礼法を忘れそうだから」


縫い女の一人が、勢いよく顔をそらした。


ソファは口を押さえた。


私は顔が一気に熱くなるのを感じた。


「出てください」


「分かった」


「今すぐです」


「そうしよう」


ノアは素直に下がった。


戸口の外へ向き直る前、私に向かって口だけで小さく動かした。


『きれいだ』


私は今すぐ手近にある針でも投げつけたかった。


だがもっと大きな問題は、腹が立つのに、気分がそれほど悪くもなかったことだった。


その事実がいちばん腹立たしかった。


婚礼衣装の寸法をすべて測り終えると、息が詰まりそうだった。


私はソファに少しひとりになりたいと言ってから、母屋の裏手へ足を向けた。


お父さまの画室。

子どものころから何度も出入りしていたのに

いつからか、ひとりで入ることは減った。


特に母が亡くなってからは。


扉を開けると、慣れた匂いがした。


墨。

紙。

膠。

古い木。


そしてごくかすかな顔料の匂い。


外の世界とは違う空気だった。

ここに入ると、いつも心が静まった。

人は嘘をつけても、筆は嘘をつけない。


手が震えれば線も震え、ためらえば墨が滲み、

心が急げば紙が先に気づく。


私は壁際の棚を見た。


お父さまの筆が、大小きれいに並んでいた。


幼いころ、その筆をこっそり触ってひどく叱られたこともあった。


『女が筆を握ってはいけないのではない。そうして何をしようとしているのかを、他人に問われることが問題なのだ。』


母はそう言った。


父より少しやわらかな言い方だったが、意味は同じだった。


するな。見つかるな。望むな。


私はゆっくり画室の奥にある小さな引き出しを開けた。


そして、その中に隠しておいた巻物を取り出した。


ハン・ノアの顔。数年前のハン・ノア。


まだ今ほど輪郭は濃くなく、少年の面影が顔のあちこちに残っている姿。


絵の中のノアは笑っていた。


憎たらしく。あの頃のまま。

私はしばらくそれを見つめた。


「……おまえのせいで、これがまだ残ってるんだ」


あの日、燃やしてしまうこともできた。


あの子が去って、熱が下がってから、炉の前まで持っていったこともあった。

火に紙の端を当てるだけでよかった。


けれど結局できなかった。もう二度と会えないと思ったから。忘れたいのに、忘れてしまうほうがもっと怖かった。


私は横に置かれた筆を取った。


ふと、今のハン・ノアを描きたいと思った。

その考えが浮かんだ瞬間、自分で驚いた。


「……なんでこんなことを」


筆を置いた。


それから、また持ち上げた。


「いや、ただ比べるだけ」


誰に言い訳しているのかも分からない。


新しい紙を広げた。


墨をほんの少しだけつけた。


目。

まず目から描いた。

数年前より、もっと深くなっていた。


笑うときは相変わらず軽いのに、笑わないと、その目の下にごく浅い疲れが落ちる。


昨夜のように。


『私はおまえを守ると言って去ったが、実際にはおまえをいちばん大きく傷つけた。』


筆先がしばらく止まった。


墨が紙に少し深く染みた。


「また揺れた」


そのときだった。


「だから跡が残るって言っただろう」


手が固まった。


心臓がそのまま落ちた。


私はとてもゆっくり顔を向けた。


戸口の外。


ハン・ノアが立っていた。


「……。」


「……。」


しばらく、誰も何も言わなかった。


私は反射的に、紙の上を腕で隠した。


ノアが瞬きをした。


それから、とてもゆっくり両手を上げてみせた。


「見ていない」


「見たじゃないですか」


「半分だけ」


「それは見たってことです」


「なら謝ろう」


彼は本当に頭を下げた。


「すまない」


その態度があまりにも素直で、かえって言葉が出なくなった。

私はあわてて新しい絵をたたんだ。

それから、その隣に広げてあった古い巻物を遅れて見つけた。


遅かった。


ノアの視線は、もうそこに届いていた。


絵の中の自分に。


今度は彼の顔から笑みが消えていた。

私は巻物を急いで丸めた。


「出てください」


ノアは何も言わなかった。


「公子様」


「ああ」


「出てくださいと言っているのです」


「分かった」


彼は敷居から一歩退いた。


だが、背を向けはしなかった。


「……ひとつだけ聞いてもいいか」


「いやです」


「なら聞かない」


彼は本当に聞かなかった。


それも腹立たしかった。


いっそ聞いてくれれば、怒ることくらいできたのに。


「どうしてここへ来たんですか」


今度は私が先に聞いた。


「おまえを探しに」


「どうして」


「さっき叔母上の言葉で、気を悪くしたかと思って」


私はあきれて笑った。


「それで慰めにでも来たんですか」


「そう思っていたが」


彼の視線が、私の抱えた巻物へ下がり、また上がった。


「私のほうが慰められそうだ」


「どういう意味です」


ノアはとても慎重に笑った。


「私の顔をあれほど丁寧に描いていた人が、この世にいたとは」


「……。」


「思ったより、気分がいい」


私は巻物を背後に隠した。


「勘違いしないでください」


「うん」


「公子様が好きで描いたわけじゃありません」


「分かった」


「本当です」


「ああ」


返事があまりにも素直だった。


「どうして信じてない顔なんですか」


「信じている」


「違います」


「では、何の理由で描いたんだ」


私は口を閉じた。

ノアがすぐに言った。


「答えなくていい」


その瞬間、彼が決めた規則を思い出した。


三つ目。


私は彼を見た。


「第三の規則」


ノアの目が細くなった。


「覚えていたのか」


「まだ教えてもらっていません」


「今教えようか」


「言ってみてください」


彼は敷居の外に立ったまま言った。


「第三に」


声が少し低くなった。


「互いに隠しておきたいことは、無理に暴かない」


私は巻物を握る手に少し力を込めた。


「それが規則ですか」


「そうだ」


「公子様にかなり有利な規則みたいですね」


「私も隠し事が多そうか」


「かなり」


ノアはふっと笑った。


「否定はせぬ」


それから、しばらく私を見た。


「ただし、条件がひとつある」


「……先に知ったら面白くないんじゃなかったですか」


「だから今言うのだ」


彼の笑みが少し薄れた。


「隠したことがおまえを傷つけるなら、そのときは知らぬふりはしない」


私は黙っていた。


「そして、私が隠したことでおまえが傷つくなら」


ノアはゆっくり付け足した。


「おまえが尋ねる前に、私が言う」


昨夜の話が自然とよみがえった。


何年も言わなかったこと。去った理由。

ユン家との縁組。自分の恐れ。


「公子様は、もう一度破ったように見えますが」


「だから今度から守ろうとしているんだ」


あまりにも図々しくて笑ってしまった。


「……規則を自分の都合で遡及しないでください」


「おまえが許すなら、今日から」


私は彼を長く見つめた。


そして、ごく小さくうなずいた。


「いい」


彼はもう巻物を見ようとはしなかった。


「なら、私は外にいる」


背を向けようとする彼の背中に、思わず言葉が飛び出した。


「……あの日です」


ノアが止まった。


私は自分でも驚いた。

わざわざ言う必要はなかったのに。


彼は振り返らなかった。

待っていた。私が続けて話すのか、やめるのか。

その待ち方が、かえって私を少し勇敢にした。


「公子様が去る前の日」


とてもゆっくり言った。


「あの絵……そのとき描いたんです」


ノアの肩がわずかに固まった。

しばらくして、彼が振り返った。

さっきとは違う顔だった。


「前日?」


「はい」


「私が図画署の裏庭で見たものが……」


私はうなずいた。


「それです」


ノアの唇がほんの少し開いた。

本当に驚くと、この人も言葉がなくなるんだ。


初めて知った。


「じゃあ、あのとき」


彼が低く言った。


「私の顔を描いていたのか」


「言いましたよね。好きで描いたわけじゃないって」


「うん」


「何度も笑わないでください」


「笑っていない」


本当だった。

ノアは笑っていなかった。

その代わり、妙な目で私を見ていた。


言葉では説明しにくい目。


喜んでいるようでもあり、申し訳なさそうでもあり、何かを長く失っていて、ようやく見つけた人のようでもあった。


「どうしてそんな顔をするんです」


ノアがとてもゆっくり尋ねた。


「あのときからずっと持っていたのか」


私は少しためらった。


「……燃やそうとしたことはあります」


彼の目が揺れた。


「それで?」


「燃やせませんでした」


「なぜ」


私は唇をわずかに動かした。


今度は


沈黙しなかった。


「忘れてしまいそうで」


その言葉が画室に落ちた。


とても小さな言葉だったのに、妙に大きく響いた。


ノアは何も言えなかった。


私は視線を逸らした。妙に気恥ずかしかった。

こんなことを言うつもりではなかった。


「また会えないと思っていたので」


急いで付け足した。


「絵を残したのは、それだけです」


「……それだけでも」


ノアが低く言った。


「私には十分だ」


私は顔を上げた。


彼が笑った。


今の笑みはいつもと違った。


きれいに笑うでもなく、人をからかおうとする気配もなかった。


ただ—


うれしい人の笑顔だった。だから、なおさら見ていられなかった。 


私は先に顔をそむけた。


「もう本当に出てください」


「分かった」


「それから、この絵の話は誰にも言わないでください」


「もちろん」


「お父さまにも」


「分かった」


「左議政邸にも」


「死ぬまで」


「……そこまで言わなくてもいいです」


ノアが敷居をまたごうとして止まった。


「ㅇㅇ아」


「何です」


「新しく描いていたのは」


心臓がどきりと跳ねた。


「見ていないって言ったじゃないですか!」


「目だけ見た」


「それを見たって言うんです!」


「だが」


彼が口元を上げた。


ああ。あの顔だ。もう元のハン・ノアだ。


「以前よりかっこよく描いてあったな」


「出てください」


「今行く」


「ハン・ノア!」


彼は笑いをこぼしながら廊下へ出ていった。


私は近くにあった枕をつかんで投げた。


もちろん敷居にすら届かなかった。


画室にはまた、私ひとりが残った。


私はしばらく荒い息をついてから、ゆっくり紙のほうへ視線を向けた。


新しく描いた目。


墨が少しにじんでいた。なのに、妙に—

さっきより、もっと似ていた。


夕方になっても、気分は妙なままだった。


ハン・ノアに見つかった。


私がこっそり絵を描いていること。


しかも、あの人の顔を何年も隠していたことまで。 

普通の人なら、今日の夕方から一生布団の中から出ないつもりになっただろう。


私もそうしたかった。


だが問題は、ハン・ノアが本当に誰にも言わなかったことだった。


夕飯の席でも。お父さまの前でも。

使用人たちが行き来する場でも。


彼はいつもと同じだった。


お父さまと政の話をして、お茶を飲んで、ときどき私をからかって。

一度も絵の話をしなかった。

むしろこちらが、何度も顔色をうかがう羽目になった。


本当に言わないんだ。

本当に知らぬふりをしてくれるんだ。

その事実が少しおかしかった。

人はたいてい、秘密を知ると、それで相手を少しずつ自分のものにしようとする。


『私はおまえの隠し事を知っている』


あの目。あの口ぶり。あの優位。 

でもノアにはそれがなかった。

彼は本当に、戸の外に置いてきたものみたいに振る舞っていた。


食事が終わりに近づくころ、お父さまが先に席を立たれた。


「婚礼準備が急なので、明日早めに図画署へ入ってみよう」


「私が帳面を見ておきます」


私が答えると、お父さまは短くうなずかれた。


「そうか」


その言葉とともに、私を一度見た。


「最近おまえの手が、また墨で汚れるな」


心臓が止まった。

手元を見た。


人差し指の横。


どれだけ洗っても消えない、ごく薄い墨の跡が残っていた。


「……本を読んでいて付いたのです」


嘘だった。


お父さまの視線が、指先にしばらくとどまった。

その短い時間が、何刻にも感じられた。


そのときノアが平然と自分の袖を見せた。


「私のせいです」


私は彼を見た。


お父さまも視線を移された。


ノアの袖口に墨が付いていた。


「今日は私が書をしていて硯に触れてしまいました。ㅇㅇが片付けてくれるときに、手に墨が付いたのです」


いつ付けたんだ。 

ノアは平然とした顔だった。


お父さまはしばらく私たち二人を見てから、うなずかれた。


「婚礼を控えているのだから、手を傷つけぬよう気をつけなさい」


「はい」


お父さまが出ていかれても、私はしばらく黙っていた。


ノアは茶を飲んでいた。


何事もなかった顔で。


「……公子様」


「うん」


「袖」


「ああ」


彼は見下ろした。


「さっき付いたのだろうな」


「わざと付けましたよね」


「何のことか分からないな」


「私がばかだとでも?」


ノアが茶碗越しに笑った。

私は低く言った。


「どうして嘘をついたんです」


「規則を守っただけだ」


「三つ目の規則ですか」


「そう」


「隠したいものは、問い詰めない」


「そして」


彼が茶碗を置いた。


「その秘密のせいでおまえが困るなら、知らぬふりはしない」


私は口を閉じた。

ノアはもう何も言わなかった。

まるで大したことでもしたかのようではなく。

そのほうが、かえって心に触れた。


「どうしてそこまでなさるんですか」


彼が私を見た。


「何を」


「私と婚礼を守るために清国まで行って」


ひとこと。


「私の絵も、知らぬふりをしてくれて」


ふたこと。


「お父さまにまで嘘をついて」


みこと。


言うほどに、自分が何を訊いているのかも分かってきた。


「どうしてずっと……」


声が少し小さくなった。


「私の味方をするんですか」


ノアは答えなかった。


彼はとてもゆっくり目を伏せた。


それから笑った。


「その答えは」


彼が言った。


「昨夜、大事にしまっておくと言ったものと同じだな」


息が詰まった。


私はすぐに目をそらした。


「もういいです」


「おまえが聞いたんだ」


「聞きません」


「分かった」


「本当に言わないでください」


「うん」


素直だ。今日はどうしてこんなに言うことを聞くのか。

だが数秒後、彼は付け足した。


「ただ、一つだけ訂正しよう」


「……何をです」


「私がずっとおまえの味方だったわけではない」


私は顔を上げた。


ノアがまっすぐ私を見た。


「最初から、私の味方はおまえだった」


「……。」


言葉がなくなった。


この人は本当に。


人を何気なく殺す。


私はゆっくり席を立った。


「先に失礼します」


「顔が赤いぞ」


「暑いので」


「初春だが」


「公子様」


彼は口を閉じた。

口元はまだ上がっていた。

私は振り返りもせず部屋を出た。


廊下の端まで歩いてから、ようやく手で顔を覆った。


熱かった。本当にひどく。


夜が更けた。


私は部屋に戻って、長いこと本を開いたままにしていた。


一ページも読めなかった。


文字はちゃんと分かるのに、文が頭に入ってこない。


『最初から、私の味方はおまえだった』


ページをめくった。


また同じ文が聞こえた。


もう一度めくった。やはり聞こえる。結局、本を閉じた。


「ひとりのせいで読書もできないなんて」


ろうそくの火が揺れた。


私の指先には、昼間の墨がまだごく薄く残っていた。


ふと、引き出しにしまった巻物のことを思い出した。


昔のハン・ノア。


そして今日、新しく描きかけた目。二つの絵のあいだには、何年もあった。


その何年のあいだに彼は変わり、私も変わった。

それなのに、筆先だけは妙に同じ場所へ戻っていった。


私は指で机の上をゆっくりなぞった。


もしかしたら、憎むということは忘れられないという意味なのかもしれない。忘れた相手には怒りさえ湧かないのだから。

憎む理由も、聞きたいことも、聞きたい答えも残っていないのだから。


私はまだ、彼に聞きたいことがたくさんあった。


清国でどう生きていたのか。なぜ一度も知らせを寄こさなかったのか。ユン・ソリョンとは正確にどういう関係なのか。

どうして戻ってきてすぐ婚礼を急いだのか。


それから—


本当に私を愛しているのか。


「……。」


また顔が熱くなった。


私は両手で頬を押さえた。


「それは、あとで」


ひとりでつぶやいた。


まだ。

本当にまだじゃない。

そのときだった。


外で慌ただしい足音が聞こえた。


「アギシ」


ソファだった。


いつもと違う声。


私はすぐに立ち上がった。


「何かあったのか」


戸が開いた。


ソファの顔は少し青ざめていた。


「領監様が、客間へ来いとおっしゃっています」


その瞬間、数日前の記憶が重なった。


最初にハン・ノアの帰還を聞いた日も、こんなふうだった。


静かな夜。


突然の呼び出し。


私は道服を羽織った。


「どうして呼ばれたんだ」


「私も詳しくは……」


ソファが少しためらった。


「左議政邸から人が来ています」


心臓が冷えた。


「この時間に?」


「はい」


客間へ向かう道が、やけに長く感じられた。


中庭には月明かりが白く降りていた。


門の前に、見慣れぬ駕籠が一つ見えた。


左議政邸の紋が入った駕籠。


ハン・ノアも来ていた。


父上と向かい合って座る彼の顔からは、今日一日見えていたいたずらっぽさが消えていた。


私はゆっくり席についた。


「お呼びでしたか」


お父さまが口を開かれた。


「先ほど左議政邸から使者が来た」


私は膝の上で手をそろえた。


「婚礼の日のことですか」


「婚礼の日も含まれている」


その言葉に、ノアがごくわずかに眉を寄せた。


お父さまが封をした書状を、私の前へ置いた。


赤い封印。


漢氏の家紋。


「もともとの予定より、婚礼を早めると言ってきた」


「……どれほどですか」


「十日」


息が止まった。


「十日後ですか」


「そうだ」


私は思わずノアを見た。


彼も初耳らしく、顔がこわばっていた。


「公子様はご存じなかったのですか」


ノアが短く答えた。


「知らない」


声が低くなった。


「私にも相談はなかったようだ」


お父さまは彼を少し見てから、再び私へ視線を戻した。


「それと、もう一つ」


妙だった。


お父さまの顔は、婚礼の日を一つ伝えるときよりずっと重かった。


「左議政大監が、直接お越しになる」


私は目を上げた。


「……直接?」


「明日だ」


部屋が静かになった。


左議政。


ハン・ノアの祖父。


最初に私の家と婚約を結び、その後もっと大きな力を持つユン家を見て心を翻した人。


ハン・ノアに私との約束を断てと言った人。


そして今も、ユン家との婚姻を望む勢力の中心にいる人。


その人が、直接来る。

ノアが書状を手に取った。

封を確かめる目が、冷たく沈んだ。


「祖父が、こんな形で出てくるとは思わなかった」


お父さまが尋ねた。


「どういう意味だ」


ノアはすぐに答えなかった。


書状をゆっくり下ろした。


「婚礼を十日後に早め、そのうえ直接この家へ来るということは」


彼の視線が私に届いた。


「婚礼を祝うために来られるのかもしれません」


「そうでなければ」


私が尋ねた。


ノアの表情から、最後に残っていた笑みまで消えた。


「条件を持って来られるのだ」


背筋が冷えた。

お父さまが強ばった声で尋ねた。


「どんな条件だ」


ノアはしばらく黙った。それから、とても低く言った。


「私を折るための条件」


そして視線が私に届いた。


「あるいは」


一拍。


「おまえを」


指先が冷たくなった。


私は膝の上で手を強く握った。


数日前なら、怖かっただろう。


左議政という名だけで、自分がどこに立っている人間なのか、まず思い出したはずだ。


中人の娘。


漢氏の家より下の人間。


あの家がその気になれば、いつでも押しのけられる人間。


なのに不思議と、今日は最初に別の考えが浮かんだ。


昼の画室。


敷居の外で止まっていたハン・ノア。


『互いに隠しておきたいことは、無理に暴かない』


そして夕方。


『最初から、私の味方はおまえだった』


私はゆっくり息を吸った。


そしてノアを見た。


「公子様」


「うん」


「第一の規則は、まだ有効ですか」


ノアの目がほんの少し大きくなった。


「もちろん」


「私がうなずいて許可したら従い、拒めばその場でやめると、おっしゃいましたよね」


「そう」


私はうなずいた。


「では明日は」


ノアが私を見た。私は今度は避けなかった。


「私のそばにいてください」


部屋に短い沈黙が流れた。

ノアの顔に、ごくかすかな変化が走った。


「そうする」


低く、固い返事だった。


「今度はどこへも行かない」


私はその言葉を聞いても、何も返さなかった。

ただ、指先に入れていた力を少しだけ抜いた。

窓の外から月明かりが長く流れ込んでいた。


今日、私は初めてハン・ノアに、そばにいてほしいと言った。


そして明日


あの人を一度私から奪っていった相手が、私たちの前に来る。


十日後の婚礼より、目の前の明日のほうが近かった。


不思議と、怖くなかった。


分かった気がした。


私が待っているのは、もうハン・ノアの答えだけではない。


今度は私も、自分の立場を言わなければならない。



第7話 筆先に残った人 終

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