翌朝。
ホテルの窓から差し込む光で目が覚めた。
机の上には、昨日奕翔からもらった
小さなスケッチブック。
私はそっと表紙を開く。
一ページ目。
街中で道に迷ってる私。
「こんな顔してたんだ……。」
思わず笑みがこぼれる。
ページをめくる。
スイーツを食べて笑う私。
美術室で祖父の写真を見つめる私。
ガジュマルの木を見上げる私。
どの絵も、私が気づかない瞬間ばかりだった。
最後のページだけは、何も描かれていない。
白紙。
昨日の奕翔の言葉が浮かぶ。
「最後の一枚は、一緒に描きたいから。」
そのページを閉じる指先が、少しだけ熱かった。
「今日は、少し寄り道しませんか?」
迎えに来た奕翔が言った。
「寄り道?」
「祖父たちが授業のあとによく来ていた丘です。」
車を降りると、目の前に広がるのは穏やかな景色。
遠くまで続く街並み。
風に揺れる草木。
そして、大きな木の下に古いベンチ。
「ここでよく絵を描いていたそうです。」
奕翔はカメラを取り出し、シャッターを押した。
カシャ。

「私を撮った?」
「自然だったので。」
「消して〜」
「無理です。」
「なんで?」
「笑顔かわいかったから。」
言った本人が、一番驚いた顔をしていた。
「あ……。」
耳まで赤くなる奕翔。
私は思わず吹き出した。
「今の、聞かなかったことにしてあげる。」
「お願いします……。」
二人で笑う。
風が吹く。
その時間が、たまらなく愛おしかった。
「せっかくだから。」
私はバッグからスケッチブックを取り出した。
「今日は、この続きを描こう。」
奕翔は少し驚いたあと、嬉しそうに頷く。
二人並んでベンチに座る。
鉛筆が紙を走る音だけが静かに響く。
時々目が合う。
そのたびに、照れて笑う。

「もう見ないで。」
「見てません。」
「絶対見た。」
「だって、真剣な顔が珍しくて。」
「それ褒めてる?」
「もちろん。」
そんな何気ない会話が、心地よかった。
描き終えたあと、お互いの絵を見せ合う。
「え……。」
私は息をのんだ。
奕翔が描いていたのは景色ではなく、
木漏れ日の中で笑う私だった。
「また私?」
奕翔は照れ笑いを浮かべる。
「描こうと思って描いてるわけじゃないんです。」
「?」
「気づいたら、いつも描いてます。」

胸が、ぎゅっと締めつけられる。
私も自分のスケッチを見せた。
そこには景色ではなく、
カメラを構えて笑う奕翔。
二人で顔を見合わせる。
「お互い様だね。」
そう言って笑うと、
奕翔も安心したように笑った。
ホテルまでの帰り道。
細い路地で、自転車が勢いよく走ってくる。
「危ない。」
奕翔がそっと私の手首を引いた。
肩が触れるほど近い距離。
「……ありがとう。」
「いえ。」
手はすぐ離れた。
でも、お互い少しだけ黙ってしまう。
歩きながら、奕翔が小さく呟いた。
「最近……。」
「うん?」
「あなたを描く方が、景色を描くより楽しいです。」

私は思わず立ち止まった。
そんなの、ずるい。
返事なんてできるわけがない。
ただ笑って、
「私も。」
その二文字だけ返した。
夕焼けが、二人の影を長く伸ばしていた。
そして、バッグの中では、
白紙だった最後のページが、
少しずつ未来を待っていた。
