「もう少しだけいて。」
私の言葉に、ゴンホはそれ以上聞かなかった。
ただ私の隣に立って、同じ空を見上げた。
風は吹き続けた。手に握ったココアは少しずつ冷めていき、ゴンホが貸してくれた上着の袖は手の甲をほとんど隠していた。
風の音がだんだん強くなり始めた。耳のそばをかすめていく風の音を聞いているうちに、ふとさっきゴンホが言った言葉を思い出した。
『俳優である前に、俺は……』
そこで途切れた言葉。
私は結局、先に口を開いた。
「さっき言いかけたやつ」
「え?」
「俳優である前に何を言おうとしたの。何?」
「……。」
ゴンホはすぐには答えなかった。
私は中身が空になって冷えきった缶を両手で包むように握ったまま待った。
「また言いかけたら、ほんとにイラつくからな」
ゴンホが小さく笑った。
「わかってる」
「わかってるなら言って」
ゴンホは手に持っていた缶を手すりの上に置くと、照れくさそうに頬をかいた。暗くて表情はよく見えなかった。やがて、彼の低い声が聞こえてきた。
「……君には、ただのアン・ゴンホでいたくて」
私はしばらく言葉を失った。
ゴンホは空ではなく私を見ていた。
「画面に出てくる人じゃなくて」
「……。」
「みんなが知ってるアン・ゴンホじゃなくて」
彼は少し言葉を切った。
「ただ、君が知ってたやつ」
胸の奥が少しくすぐったくなる、そんな感じがした。ぼんやりその話を聞きながら、何気なく言った。
「……君はもう、ただのアン・ゴンホじゃん」
ゴンホが私を見た。
「私が君の作品を見たからって、君が急に別人になるわけでもないし」
「……。」
「撮影現場で見たときは、ちょっと不思議だったけど」
私は少し言葉を止めた。
いいことを言いすぎると、また変に受け取られそうで、かといってわざとひねって言うのも嫌だった。
「でも、やっぱり君だった」
ゴンホはしばらく何も言わなかった。
私はその沈黙が少し気まずくて、もう一度空を見た。星は確かに上にあるのに、横から来る視線のほうがやけに気になった。
「なんでまたそんなふうに見るの」
「いや」
「いやって顔じゃないけど」
「その言い方もいいね」
ゴンホが笑った。私は呆れて答えなかった。
さらに冷たくなった風が頬をなでた。うん、もう下りる時間かな。そろそろ降りようと口を開きかけたところで、ゴンホの低い声が聞こえてきた。その声で思考が止まり、私はゆっくりゴンホを振り返った。
「俺」
「……。」
「君のこと、好きだ」
言葉は短かった。
だから、ひと呼吸遅れて入ってきた。
私はぽかんとしたままゴンホを見た。これ、いま、どういう状況?
自分がどんな顔をしているのかもわからない。ゴンホは手を伸ばして、私には少し大きい上着をさらにきちんと合わせてくれた。
「今度はちゃんと言いたかった」
ゴンホが付け足した。
私は視線を外し、手にしたココアの缶を見下ろした。もう空っぽで、冷えきっている。なのに指先だけは妙に熱かった。
ドクン、ドクン――胸から耳まで、心臓の音が駆け上がってくる。その音が大きすぎて、もう風の音さえ聞こえないほどだった。まるで、私が気づいていなかった気持ちを、心臓はもう全部わかっているみたいに。
「返事は今じゃなくていい」
私はまっすぐ顔を上げてゴンホを見た。
「誰が今しないって」
ゴンホは私の返事に少し驚いた顔をした。
私はすぐに言葉を続けられなかった。頭が真っ白になったわけじゃない。でも、ぴったりの言葉が浮かぶわけでもなかった。
好きだ。
その言葉に同じ言葉を返すのは、まだ難しかった。だからといって、何でもないふりで流すのも嫌だった。
私はもじもじして、しばらくしてからやっと言った。
「私、まだよくわからないけど」
「うん」
「でも、見続けてもいい気がする」
ゴンホは静かに私を見た。
「何を」
言ってから妙に気恥ずかしくなって、私は慌てて空のほうへ視線を向けた。
「作品も見て」
「……。」
「星も見て」
「……。」
「ただ、君のことも」
ゴンホはしばらく何も言わなかった。
代わりに、小さく息を吐いた。ずっとこらえていたものを、少し手放す人みたいに。
「それで十分だ」
私の頭に上着のフードをかぶせてくれる。風を防いでくれて、ずっと暖かくなった。顔も、もしかしたら赤くなっていたかもしれない。暗くてよかった、と思った。暗い夜は星をたくさん見られるから。……それに、感情で混乱した私の顔や赤くなった頬も見せずに済むから。
「入ろう」私にフードをかぶせたゴンホが先に車へ足を向けた。私も小走りで、そのあとをついていった。
駐車場のほうの街灯の光が近づくほど、暗闇は引いていき、星は少しずつ薄れていった。
-
家へ帰る道では、あまり言葉がなかった。
山道を下りると、街の明かりが一気に広がった。こんな真夜中なのに、本当に明るかった。
まもなく門の前で車が止まった。私はシートベルトを外してドアを開けかけて、やめた。
「ゴンホ」
「うん」
「ドラマ、楽しく見てるよ」
「……。」
「だから、楽しく見てる私のこと思いながら、演技がんばって」
「……。」
「気をつけて帰ってね」
アン・ゴンホは何も答えなかった。振り返る勇気がなかった。ぽかんとした顔をしていたのか、それとも驚いた顔をしていたのか。今の私にできるのは、これくらいが精一杯の……精一杯の気持ちの表し方だった。
私はすぐに車を降りて、門へ走った。
門を開けるころになって、ようやく後ろで車がゆっくり遠ざかる音が聞こえた。
なんだか、星を見て帰ったというより、アン・ゴンホを見て帰ってきたみたいだった。そう、星よりも……ゴンホだけが記憶に残る夜だった。
