*これはウジンの過去です。三人称視点で進行します。
15年前。
外れに捨てられた工場の地下は真昼でも暗かった。湿気を帯びた壁からはカビの臭いがし、天井からは一定の間隔で水が落ちていた。汚れた工場の中で、幼いウジンは廊下の端にある鉄扉の前でうずくまって座っていた。ぶかぶかの黒い服からのぞく腕にはあざがたくさんあった。鉄扉の中には、数日前に連れてこられた女が閉じ込められていた。
ウジンは1日に2回、女に食べ物を運んだ。汚れた素足で廊下を歩くたび、ちゃぷちゃぷと音がした。その日も冷えたご飯と水の入った盆を持って鉄扉を開けた。女は壁にもたれて座っていた。誘拐された人とは思えないほど落ち着いた顔と、燃えるような目をしていた。
「そこに置いていって」
ウジンが盆を置くと、女が尋ねた。ウジンは背筋を伸ばして女を見た。背の低いウジンと、床に座っている女の目線はほぼ同じだった。
「君はご飯、食べたの?」
ウジンにそんなことを聞いた人は初めてだった。口が開かないウジンは、結局答えなかった。黙り込まれても困りそうなものなのに、女は嫌な顔ひとつしなかった。むしろ女は、ウジンの細い手首を見て、ご飯を半分ほどよそって盆の端へ押した。
「一緒に食べよう」
「……そうしたら、殴られます」
「誰に?」
痩せこけ、血のかさぶたのついた唇の間から、かすれた声が漏れた。背筋を伸ばして問い返すその質問に、ウジンはまた口を閉じた。女はそれ以上聞かず、ご飯を置いた。
「腹が減ったら食べて。誰もいないときに」
食べれば殴られる。でも腹は減っていた。汚れた手で汚れた服の裾を握り、迷う。女は知らんふりをしてくれるのか、こちらを見ようともしない。冷えてこびりつき、黄色くてまずそうなご飯をつかんで、むしゃむしゃ食べた。そのときも女はこちらを見なかった。2日ぶりの最初の食事だった。人質にやる飯はあっても、子どもにやる飯はなかったのか。おかずひとつないのに、ウジンはうまそうにがつがつとご飯を飲み込んだ。
ご飯を食べ終えるのに3分もかからなかった。盆を女のほうへ押し、口元を拭いたウジンは、逃げるように外へ出た。鉄扉を閉めてからも、ウジンはしばらくその前に立っていた。じめじめした廊下には、水滴の落ちる音だけが続いた。
*
その夜、地上で銃声が鳴った。ウジンはびくりとして体を起こした。女の独房と似た、じめじめしていて窓ひとつない部屋。床でぼろ布をかけ、体を丸めて眠っていたウジンは、どん、どんと打つ自分の心臓の音を聞きながら体を起こした。外を見るために扉の近くへ行き、隙間を確かめたとき、がっしりした男たちが手に工具を持ってあちこち走り回っていた。廊下の古い電灯がぐらぐら揺れ、まわりをめちゃくちゃに照らしていた。
最初は短く響いていた銃声が、やがて立て続けに鳴り出した。大きな音と、こちらへ向かってわらわら押し寄せる足音に驚いたウジンは、慌ててまたぼろ布に戻った。まるでここが自分の防空壕でもあるかのように、その中で体を丸める。するとすぐ、扉が開いた。
「ガキ!」
階段を駆け下りてきた男が、ウジンのうなじをつかんだ。いつも酔って自分を殴っていた男だった。男の服には血がついていて、生臭い匂いがした。ウジンは震えていたが、泣き声も涙も出さなかった。
「女を連れて裏口へ行け。逃がしたら殺されると思え」
男は横たわっていたウジンを首筋をつかんで無慈悲に立たせ、ポケットから取り出した鍵を床に放り投げると、また廊下へ出ていった。銃声が近づくにつれ、天井から白い粉が落ちてきた。泣いてはいなかったが、震える手で床に落ちた鍵を拾い、廊下を見てから慌てて階段へ向かった。地下へ降りる階段は相変わらず湿っていた。これが恐怖で雨のように噴き出した汗のせいなのか、それとも工場の湿気のせいなのか、知るよしもなかった。
ウジンはすぐに廊下の端へ行き、震える手で鉄扉を開けた。
「出てください」
女がウジンの顔を見た。
「何かあったの?」
「は、早く」
ウジンは女を連れて、今度は廊下の左側へ向かった。濡れた床で何度も足が滑った。突き出た石に擦られ、すでに足の裏もふくらはぎも血が流れていた。地下室の左には古い鉄の階段がある。そこが組織の男の言っていた裏口だ。
後ろでは、なおも悲鳴と銃声が入り混じって聞こえていた。古い鉄の階段を上がれば裏口だった。ウジンが先に階段へ足をかけた瞬間、上から男が一人よろめきながら降りてきた。脇腹から血を流している組織員だった。男は女とウジンを見つけると、荒い息を吐いた。
「……うまく連れてきたな」
そのとき、廊下の反対側から靴音が聞こえた。ウジンが振り返ると、血まみれの男が廊下の端から歩いてきていた。手には銃があった。女の両目が大きく見開かれた。
「あなた!」
組織員はすぐに銃を上げ、男を狙った。すぐに引き金が引かれ、あの威勢よく歩いてくる男は死ぬだろう。いつもそうだったように。
だが幼いウジンは迷っていた。どうしよう。止めるべきか。その考えが頭を支配する。いつもの誘拐、いつもの襲撃、いつもの争い。ウジンのいた組織では、何ひとつ特別なことなんてなかった。……それでも、あの男が死んだら、この女も生きては出られない。そんな予感は本能のようだった。この女に生きていてほしい。私に怒りもせず、殴りもせず。それどころか気遣って、自分のご飯を半分も分けてくれた女に、感謝したから。
ウジンは、自分の中から湧き上がる、ぬるくて温かい何かを生まれて初めて感じた。そしてそのぬくもりは、すぐにウジンの心を揺さぶった。どぶのような場所でもらったたった一度の温かさは、それほどまでに温かかった。
ウジンは焦った顔で、女と廊下の端の男を交互に見た。そして考える間もなく階段を駆け上がり、組織員の脚を思い切り押した。
バンッ!
弾丸は外れ、コンクリートの壁に突き刺さった。
「……このクソガキが!」
組織員はウジンのうなじをつかんで放り投げた。小さな体が階段の下へ転がり落ちた。息もできずうずくまるウジンに、黒い銃口が向けられた。さっき発砲した銃は、溶けた鉄のように熱かった。ウジンはぶるぶる震えたが、泣きも声も出さなかった。その異様さに、女の表情が歪んだ。
「死にたいの?」
ウジンの体が固まった。避けるという考えすら浮かばなかった。あの女が助かるなら、それでいい。なぜか、自分の役目を果たしたのだと思えた。穏やかに閉じた目とは違い、小さな体は震えていた。
男は息を吐いて額に浮いた髪を吹き払い、ウジンを一度蹴った。
「食わせて寝かせてやったのに、恩知らずなやつだ」
そしてウジンを狙う。やがて銃声が鳴り、ウジンはぎゅっと目を閉じてから開けた。どういうわけか痛みは感じなかった。「あなた!!」という大きな叫び声が、遠くで聞こえたような気もした。あまり殴られすぎて、銃も痛くないのか、と思いながら目を開けたとき。ウジンの前は真っ暗で深い銃口ではなく、やわらかな髪が視界をふさいでいた。
ウジンの前には女がいた。胸から広がった血が服をすばやく染めた。女の体が力なく傾く。ウジンは自分に倒れ込んできた女を、とっさに抱きとめた。あたたかい血が指の間を流れた。
「おばさん……?」
組織員がもう一度銃を構えた。それより先に、廊下の反対側で銃声が鳴った。向こう側からは、慌ただしく走ってくる靴音が聞こえた。そしてさらに二、三発の銃声が響いた。男の体が鉄の階段の下へ転がり落ちた。
火薬の匂いが、湿った空気をかき乱した。
靴音が急速に近づいた。銃を撃ちながら走ってきた血まみれの男は、ウジンの腕に抱かれた女を見つけると足を止めた。
「……君」
ウジンのもとへ駆けつけた男が床に膝をついた。女を抱きとめる手が荒く震えていた。女が苦しそうに目を開けた。唇が何度か動いたが、声はまともに出なかった。指先がウジンのほうを向いてから、力なく落ちた。それが最後だった。
「君」
男がもう一度呼んだ。返事はなかった。
外の銃声も、いつの間にか止んでいた。天井から落ちる水の音と男の荒い息だけが廊下に残った。荒い息は、まるで怒りに満ちた獣のようだった。
ウジンは血のついた手を見下ろした。自分のせいで死んだ。そのことしか考えられなかった。怖い? それとも、申し訳ないのか。手がぶるぶる震えた。ウジンは初めて、目から流れるあたたかさを感じた。涙だった。
男は女を抱きしめて、絶望したように泣いてから、ゆっくり顔を上げた。真っ赤に充血した目がウジンを向いた。手にある銃口も一緒に動いた。
ウジンは逃げなかった。どうせ帰る場所もなかった。冷たい銃口が額に触れた。
「何歳だ」
「……9歳です」
男の顔が歪んだ。今にも引き金を引きそうに、指に力がこもった。
「うちの娘もお前と同じくらいだ」
銃口がかすかに揺れた。男の声も一緒に揺れていた。
「最近はぺらぺらよくしゃべる」
男は抱いている妻を見下ろした。怒りで歪んだ顔から涙が落ちた。しばらくして、ウジンの額から銃口が離れた。男の片手は女を抱き、銃を持った手は力なく床へと落ちた。
「恥ずかしくないように育ってほしい」
「……」
「お前の親もそう願っただろう」
男は最後まで引き金を引かなかった。
*
その日、ウジンは組織を抜けた。男はウジンに居場所を用意し、もう二度とこちらへ戻るなと言った。だがウジンは普通に生きる方法を知らなかった。一生暗い場所で育ったのだから、急に日の下へは出られなかった。
代わりに、自分と同じ人たちを探した。逃げたくても逃げられない子どもたち。依頼を断ったせいで追われる人たち。死ななければ抜け出せない人たち。何かの正義感から始めたわけじゃない。ただ、自分の幼い頃の姿があまりにも惨めで、その気持ちを抱えていく人がいなければいいと思っただけだ。そして、そうすればあの女のような犠牲者も出ないだろう。ある種の贖罪だった。
数年後、ウジンは再び男を訪ねた。最初にできた「友だち」を連れていった日だった。いつの間にか顔にしわが刻まれた男は、ウジンの話を聞いて笑った。
「この人を生かしたいんです」
男はウジンの後ろに隠れている人を見てから、書類を受け取った。その日、一人が死んだ。書類の上だけで。名前と住所が変わり、死んだ人は誰も知らない場所で再び生き始めた。
同じことが繰り返されるたび、男の書斎には死亡処理された人たちの書類が積み上がっていった。ウジンの仕事だけを引き受けるわけではなかった。男も時々ウジンを『使った』。
ウジンは日の下へ出られなかった。その代わり、ほかの人たちを地下から連れ出して、日陰へ送り出した。
それが、自分を生かしてくれた二人への借りを返す方法だった。
