大門の前には左議政の家から先に送られた下人たちが立っており、サランチェには父上がいつもより早く席についておられた。
ソファは私の髪を梳かしながらも、何度も部屋のほうをちらりと見た。
「櫛で私の髪を抜くつもり?」
手が止まった。
「……申し訳ございません」
「緊張してるの? 手が震えてるじゃない」
ソファが櫛を見下ろした。本当に少し震えていた。
「お嬢様は震えませんか?」
私は鏡の中の自分の顔を見た。
「震える」
「まったくそうは見えませんけど」
「昨夜すでに十分震えたからね」
ほとんど眠れなかった。左議政が来る。
ハン・ノアの祖父。いったい何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
婚礼に反対するなら、延期するのが筋だった。
なのに、むしろ前倒しにした。
しかも孫のハン・ノアに一言の相談もなく。
『条件を持って来るのだ。』
ノアの言葉が浮かんだ。
『俺を折るための条件。』
そして。
『あるいはそなたを。』
私はゆっくり息を吐いた。ソファが髪にかんざしを挿した。
「できました」
「変?」
「いえ。とても端正です」
「あまり端正だと、なめられて見えないかしら」
ソファが鏡の中の私をじっと見た。
「……お嬢様はじっとしていても、あまりなめられて見えません」
「それ、どういう意味?」
「いい意味です」
違う気がする。
私は席を立った。今日は派手な服は着なかった。
濃い紺のチマに淡い灰色のチョゴリ。飾り物も最小限にした。左議政に気に入られに行く場ではない。
だからといって、戦いに行く場でもない。
ただ——私がどんな人間かを言いに行く場だった。
部屋の戸を開けると、冷たい朝の空気が入ってきた。
マルの端に人がひとり立っていた。
ハン・ノアだった。腕を組んだまま柱にもたれていた。
「なぜこちらに?」
彼は私を見ると体を起こした。
「待っていた」
「私を?」
「うん」
「どうして」
「一緒に行こうと思って」
私はしばらく彼を見た。
『私のそばにいてください』
それを本当に文字通り守るつもりらしい。
「公子様。昨日、私がそばにいてほしいと言ったのは」
「わかってる」
ノアが先に言った。
「代わりに戦えって意味じゃないんだろ」
彼は笑った。
「そのくらいは聞き取れる」
「では今日は、私に話させてください」
「そうしよう」
「私が答える前に、割り込まないでくださいね」
「努めよう」
「努力じゃなくて約束です」
ノアが少し眉を上げた。
「難しいな」
「もう無理ですか?」
「できる」
彼は姿勢を正した。
「そなたが許すまでは、割り込まぬ」
「よろしいです」
「ただ」
やっぱり、ただでは済まない人だ。
「何ですか」
「俺が本当に我慢できなければ」
「我慢してください」
「まだ終わってない」
「どうせ、我慢できなければ言うってことですよね」
ノアが少しだけ私を見て、笑った。
「もう、俺の言うことをよくわかるな」
「何年もやられてきたんです。わからなきゃバカです」
「ならよかった」
彼が私の横へ歩を移した。
私たちは並んでサランチェへ向かった。
少し歩いたところで、ノアがふいに尋ねた。
「怖いか」
私は前を見たまま答えた。
「少しは震えます」
「戻りたければ、戻ってもいい」
「大丈夫です。行きません」
サランチェが近づいた。マルの下に見慣れない履き物が見えた。
「ㅇㅇ아。今日何を言われても、その言葉がおまえの値打ちじゃない」
私は瞬きをした。
「人が家柄を言い、身分を言い、おまえがどこまで上がれるかを言っても」
ノアがまっすぐ私を見た。
「それがそなたを決めるわけじゃない」
胸のどこかが、ひどく静かに沈んだ。
私はしばらく何も言えなかった。
それから尋ねた。
「そんな言葉、どこで習われたんですか」
「清国」
「嘘」
「ばれたか」
私はふっと笑った。
さっきまで固まっていた肩の力が抜けた。
ノアが先に戸のほうへ体を向けた。
「行くか」
今度は私が先に一歩踏み出した。
「行きましょう」
*
左議政は思ったより老けて見えなかった。
もちろん髪には白いものが混じり、目尻には深いしわがあった。
なのに、目だけが妙に澄んでいた。
人を長く見つめてきた目。
向かい合って座る相手の言葉より、その裏に隠れた考えを先に見ようとする人の目だった。
父上が先に口を開いた。
「私の娘です」
私は両手をきちんと揃え、深く礼をした。
「初めてお目にかかります、大監」
「そうか」
短い答えだった。
「頭を上げなさい」
私はゆっくり顔を上げた。
左議政の視線が私の顔に触れた。
長かった。
本当に長かった。
人の顔に何がそんなにたくさん書かれているというのか、あんなふうに読み取るなんて。
知らず知らず、背筋を少しだけさらに伸ばした。
そのとき横でノアが言った。
「祖父上」
私はすぐノアを見た。
割り込むなと言ったのに。
ノアは私の視線を見て口を閉じた。
左議政の目が私たちの間を一度行き来した。
「おまえが口を閉じる日も来るのだな」
「今日だけです」
「それも殊勝なことだ」
似ている。
本当に嫌なほど似ている。
左議政が再び私を見た。
「おまえの父から聞いたが、字を読むそうだな」
「少し読みます」
「絵も描くと」
心臓が一瞬止まった。
父上を見てしまいそうになった。なんとかこらえた。
左議政は私の反応を見逃さなかった。
「なぜ驚く」
「……女が絵を描くことを、よく思わない方が多いので」
「わしがそう言ったか」
「今のところは、まだです」
彼の眉がほんのわずかに動いた。
横でノアが頭を下げた。
笑っているみたいだった。
今、笑う余裕があるの?
左議政が尋ねた。
「筆はうまく持てるのか」
私は少し考えた。控えめに言うべきだろうか。
父上の前ではいつもそうだった。
まだ足りません。
腕前と呼べるほどではありません。
ただの趣味です。
女が自分の腕前を語るときの安全な答えは、いつも小さくなることだった。
でも今日は、妙にそうしたくなかった。
「うまく持てます」
父上の視線が私に届いた。
ノアも私を見た。
左議政は無表情だった。
「なかなか自信があるな」
「できないことを、できるとは言いません」
「では、おまえの父親ほど描けるのか」
今度は少し考えた。
「まだです」
「まだ?」
「はい」
左議政の口元がほんの少し動いた。
笑ったのかどうかはわからなかった。
「いつかは、おまえの父よりうまく描くつもりか」
私は父上を見た。父上は何も言わなかった。
だが、不思議と怒っている顔ではなかった。
私はもう一度左議政を見た。
「そうしたいです」
部屋が静かになった。
そこでやっと気づいた。
あ。
今、ちょっと正直すぎたな。
もう遅かった。
左議政が茶碗を取った。
「よい」
意外な言葉だった。
「人が才を持つのは、咎ではない」
茶碗が再び卓の上に置かれた。
「ただ、その才をどこに置くべきかを知るのは別の問題だ」
来た。
私は指を少し握りしめた。
左議政が言った。
「婚礼は予定どおり、十日後に行う」
ノアの眉間が狭まった。
「昨日までは二十日でした」
「だから十日に縮めた」
「理由を伺っても?」
「尹家がまた動いている」
初めて、部屋の空気が変わった。
私はノアを見た。
彼の顔がこわばった。
左議政は平然と続けた。
「おまえが清から戻る前までは、向こうでは縁組はまだ終わっていないと思っていたのだろう」
「私は、終わったと明確に申し上げました」
「おまえが終わったと言っても、世間が一緒に終わってくれるわけではない」
「だからといって、婚礼を早める理由にはなりません」
「ある」
左議政の声が低くなった。
「婚約は口だけで守るものではない」
彼の視線が私に届いた。
「納采が行き来し、婚期が定まれば、その後の言葉は以前とは重みが変わる」
私は黙って聞いていた。
「だから、婚礼を早めたこと自体には、別の意味はない」
ノアが尋ねた。
「では、直接お越しになった理由は」
しばし沈黙が流れた。
左議政は今度は私だけを見た。
「この子のためだ」
予想していたのに、指先が冷たくなった。
「わしの孫が、なぜおまえにこだわるのかを見に来た」
「祖父上」
ノアの声が低くなった。
私は卓の下へ手を動かした。
ほんの少し。
手のひらを下に押した。待て、という意味。
ノアがそれを見た。口を閉じた。
左議政の目が再び私たちの間をかすめた。
知らぬふりをしていたが、確かに見ていた。
「婚姻は二人だけでするものではない」
彼が言った。
「特にこの家の婚姻は、なおさらだ」
わかっていた。
二人の間にあるのは、気持ちだけではない。
人々が何十年も積み上げてきた、見えない壁。
「おまえがハン氏の家に入れば、人は何をしようと、おまえの名より先に我が家を見よう」
「はい」
「おまえの失敗は、おまえだけの失敗では済まぬ」
「はい」
「おまえの父のことも、おまえの実家のことも、時には我が家のことになる」
「承知しています」
「いや」
彼はきっぱり言った。
「まだわかっておらぬ」
私は口を閉じた。
「知ることと、経験することは違う」
その言葉は否定できなかった。
「だから訊く」
左議政が言った。
「婚礼の後も筆を持つつもりか」
横でノアが動く気配がした。
私は彼を見なかった。
「はい」
答えた。
左議政の目が沈んだ。
「わしがやめろと言ったら」
今度はすぐに答えられなかった。
部屋の隅に座る父上が見えた。
生涯、筆を握ってきた手、墨の染みた爪。
宮中から命が下れば徹夜で絵を描き、それでも自分の名ひとつ自由に残せなかった人。
そして母上。
『女が筆を持ってはいけないのではなく、その筆で何をしようとしているのか、人が問うようになるのが問題なのだ』
私は子どもの頃から知っていた。
私が絵を描くことより、それが露見するほうが危ないのだと。
だから隠した。
父上に。
人に。
時には自分にさえ。
でも不思議だった。
ハン・ノアにばれてから、前より隠したくなくなった。
私は左議政を見た。
「やめられません」
父上の手がほんの少し動いた。
ノアは息さえ大きく吸わなかった。
左議政が尋ねた。
「なぜだ」
「好きだからです」
「絵が?」
「はい」
あまりにも単純な答えだった。
でも、それ以外に理由が必要だろうか。
「私がうまいことでもありますし」
私はゆっくり言葉を続けた。
「私が世界を見る方法でもあります」
左議政は何も言わなかった。
「大監がハン氏の家の法度を学べと言うなら、学びます」
私の声は思ったより震えていなかった。
「年長者を敬えと言うなら、そうします。家の体面も軽んじません」
少し息を吸った。
「ですが、筆を置けと言われるなら」
初めて指先が震えた。
私は膝の上で手をぎゅっと握った。
「それはできません」
「婚礼が破談になってもか」
ノアが今度は本当に身を動かした。
私は彼より先に言った。
「はい」
自分の答えに、むしろ私が驚いた。
婚礼が破談になるかもしれない。数日前なら、その言葉で心臓が先に沈んでいただろう。
でも今は違った。
怖かった。けれど、不思議と後悔はなかった。
左議政がしばらく私を見た。
「ノアは、おまえのために清まで行った」
「承知しています」
「あの子は何年も我慢した」
その言葉に、初めて胸の奥から何かが込み上げた。
「私も我慢しました」
部屋が凍りついた。
あ。
これはちょっと強く言いすぎたか。
でも、もう口に出た言葉だった。
取り返せなかった。
左議政の目が鋭くなった。
「何を」
私は唾を飲み込んだ。
「何年も、です」
ノアが私を見た。私は彼を見なかった。
「公子様だけを失ったわけではありません」
言うほどに、長く積もった感情が少しずつ浮かび上がった。
「私も何も知らないまま待っていました」
左議政の顔から初めて表情が消えた。
「苦しかったし」
指先に力が入った。
「憎んだし」
そして。
「それでも、忘れられませんでした」
ノアがごく小さく息を呑んだ。
しまった。
あの人の前で言うことじゃなかった。
私は急いで言葉をつないだ。
「だから、公子様が私のせいで何かを捨てたから、私も自分のものを捨てろとおっしゃるなら」
左議政をまっすぐ見た。
「それは公平ではありません」
長い沈黙。
父上も。ノアも。左議政も。
誰も口を開かなかった。
私はじわじわ不安になってきた。
もしかして今、朝鮮で一、二を争う高官のひとりに、公平を説教しているのか。
そうだな。
大変だ。
そのとき。
「ぷっ」
音がした。
私は横を勢いよく振り向いた。
ハン・ノアが頭を下げていた。
肩が震えていた。
「ごめん」
笑っている。
「今、笑ってる場合ですか?」
「いや」
笑ってる。
確かに笑ってる。
左議政が冷たく言った。
「ノア」
「はい」
ノアはやっと顔を上げた。
口角が上がっていた。
「申し訳ありません」
「何がそんなにおかしい」
「僕が何年も我慢した、っていう言い方が少し悔しくて」
「何?」
今度は私が尋ねた。
ノアが私を見た。
「俺は、我慢したと思ったことはない」
「今そこが重要ですか?」
「重要だ」
彼はあまりにも当然のように言った。
「そなたのために送った年月なら、捨てたのではない」
「……」
私は口を閉じた。
この人は本当に、場所をわきまえない。
左議政の前だよ。あなたの祖父上の前だよ。
左議政が深くため息をついた。
「これだから、おまえは気に入らぬのだ」
「承知しています」
「口が軽い」
「それも承知しています」
「それでも直すつもりはないのだろう」
「必要な言葉まで我慢するよりはいいと、教わりました」
「誰に」
ノアの視線が少しだけ私に来た。
「今です」
私は目を閉じた。
お願い。
左議政はしばらく孫を見ていた。
それから再び私に向いた。
「わしがおまえに筆を置けと言った理由が、単に女だからだと思うのか」
私は少し考えた。
「違うのですか」
「半分は当たりで、半分は外れだ」
左議政が言った。
「おまえの絵が外へ出れば、おまえが誰かが知られる」
私は黙って聞いた。
「図画署画員の娘」
その言葉がやけに鮮明に聞こえた。
「中人の娘が左議政家の嫡孫の嫁になったと、わざわざ吹聴したがる者が出るだろう」
ノアの顔がこわばった。
左議政は気にも留めなかった。
「それを口実にノアを攻める者もいるだろうし」
「それで?」
思わず聞いていた。
「だから、私の父が恥ずかしい人間だと?」
父上が私を見た。
左議政の眉が動いた。
「そうは言っていない」
「でも、隠せとおっしゃるのではありませんか」
「政治は、正しいか誤りかだけで動くものではない」
「私は政治を知りません」
「そう見えるな」
「ですが」
私は一度父上を見た。
そして再び言った。
「私の父が恥ずかしくない人だということは、知っています」
父上の顔がこわばった。
「王室の絵を描き、国の記録を残し、一生自分の仕事をしてきた人です」
喉が少し詰まった。
それでも続けた。
「私が絵を描くのも、父から習ったことです」
実際、直接習ったとは言えなかった。
盗み見た。
真似して描いた。
叱られた。
また描いた。
でも、それも結局は習ったということだった。
「それを隠さなければ入れない家なら」
唇が少し震えた。今度の言葉は怖かった。
本当に怖かった。
それでも言った。
「私は、その家に入りたくありません」
ノアがゆっくり私を見た。
左議政は微動だにしなかった。
「婚礼をしないという意味か」
私は答える前にノアを見た。
目が合った。
彼は何も言わなかった。
私が決めるまで、本当に待っていた。
それを見たら、不思議と心が静まった。
「違います」
私は言った。
「婚礼はしたいです」
今度はノアの目が少し大きくなった。
なんであなたが驚くの。あなたがあれだけ大騒ぎしたくせに。
「公子様と」
言ってしまうと、少し恥ずかしかった。
それでも、ここまで来て隠すことはできなかった。
「ハン・ノア公子様と婚礼を挙げたいです」
ノアが口を開いた。
私はすぐ言った。
「今は何も言わないでください」
口は再び閉じた。
左議政の目がかすかに細くなった。
「だが」
私は続けた。
「その婚礼のために、私が父を恥じなければならないとか」
ひとつ。
「私の好きなことを捨てなければならないとか」
ふたつ。
「私が誰なのかを隠さなければならないなら」
みっつ。
「そこまでしてしたいとは思いません」
言い終えると、心臓が狂ったように跳ねた。
手のひらには汗がにじんでいた。
膝も少し震えた。
でも顔だけは上げていた。
左議政が尋ねた。
「それでもノアがそなたを選ぶなら」
今度はノアが答えた。
「選びます」
私は彼を睨んだ。
「公子様」
「俺に訊かれたんだろ」
正しいから、なお腹が立った。
左議政が孫を見た。
「家と縁を切ってでもか」
「祖父上」
ノアは笑みなく言った。
「この家で得た名も地位も捨てると申し上げているわけではありません」
左議政の目つきが変わった。
「私も、自分の立つ場所は守ります」
ノアが言った。
「ただ、その場に立つために、この人を傷つけるつもりはありません」
胸が静かに高鳴った。
「それが祖父上のお望みになるハン氏の人間でないなら」
ノアがゆっくり息を吸った。
「そのときは、僕のほうが足りないのです」
「ノア」
「はい」
「おまえはまだ、清で何も学んでおらぬな」
「たくさん学びました」
「何を」
ノアの視線が私に触れた。
「遅れれば、失うということを」
部屋が静かになった。
左議政はしばらく何も言わなかった。
それから意外にも、笑った。
ごく小さく。
本当に一瞬だった。
「二人とも、よく出会ったものだ」
私は瞬きをした。
これ、褒め言葉? 違う気がする。
「ひとりは頑固で」
左議政がノアを見た。
「ひとりは、もっと頑固だ」
今度は私を見た。
やっぱり褒めてない。
「大監」
私が慎重に口を開いた。
「では、婚礼は……」
「予定どおり行う」
私は一瞬、言葉を失った。
ノアも同じだった。
「祖父上」
「何だ」
「さっきまで、筆を置けとおっしゃっていたではありませんか」
「置けと言った」
「なのに」
左議政は平然と茶を手に取った。
「嫌だと言うのだろう」
「……」
「……」
今度は私とノアが同時に黙った。
左議政が茶を一口飲んだ。
「わしがわざわざ見に来たのは、言うことをよく聞く子か確かめるためではない」
茶碗が下ろされた。
「おまえが、なぜあの子を捨てられなかったのかを見るためだ」
ノアの表情がこわばった。
「何年も前は、知らなかった」
左議政が言った。
「その頃のわしにとって、この子はただの図画署画員の娘だった」
私は黙って彼を見た。
「尹家はもっと大きな力を与えられたし」
彼はとても淡々と言った。
「わしは、それがおまえのための道だと思った」
ノアの顎が固くなった。
「それで、私に婚約を破れと?」
「そうだ」
「そして私が断ると、清へ送ったのですね」
「それはおまえの選択だった」
「選べる道を、ひとつしか残さなかったくせに」
空気が張りつめた。
私は初めて、ノアと左議政の間に横たわる何年もの歳月を見た気がした。
傷ついたのは私だけではなかった。
ノアも。たぶん、あの老人も。
それぞれのやり方で、互いを押し出していたのだ。
左議政が私を見た。
「ひとつ、見誤っていたようだ」
「何ですか」
「あの小僧が、清まで行っても諦めぬとは思わなかった」
私はノアを見た。
彼は祖父上だけを見ていた。
「戻れば、考えを改めると思っていた」
「むしろ、もっと悪化しました」
私が思わず言った。
ノアが私を見た。
「そなた」
「何ですか。事実でしょう」
左議政は今度は本当に笑った。
短い笑いだった。
「そう見えるな」
ノアは悔しそうな顔をしていた。
私は初めて、左議政がほんの少しだけ怖くなくなった。
ところが、その瞬間。
彼の表情がまた沈んだ。
「だが、一つだけ肝に銘じておけ」
私とノアは同時に彼を見た。
「尹家は引いていない」
笑みの消えた声だった。
「婚礼が十日後だからといって、その十日が静かだと思うな」
ノアが尋ねた。
「どんな動きがありますか」
「まだ確かなものはない」
「祖父上」
「確かでないことを口にして、おまえの判断を鈍らせるつもりはない」
左議政が立ち上がった。
「自分で突き止めろ」
ノアも立った。
「その言葉を言うために、わざわざ来られたのですか」
「それもある」
左議政の視線が私に向いた。
「花嫁の顔も見ておこうと思ってな」
「……」
この家の男たちは、どうしてみんなこうなんだ。
左議政が私の前で足を止めた。
「娘や」
「はい」
「筆を持ち続けたいと言ったな」
「はい」
「なら、うまく描け」
私は顔を上げた。
「中途半端に描いて、家の恥をさらすな」
「祖父上」
ノアが呆れたように呼んだ。
私はしばらく左議政を見て、それから頭を下げた。
「肝に銘じます」
彼が通り過ぎた。
数歩先から声がした。
「そしてノアや」
「はい、はい」
「十日以内にまた逃げたら」
ノアの顔がこわばった。
「今度はわしが捕まえに清まで行く」
私は笑いをこらえて唇を噛んだ。
ノアがごく小さく呟いた。
「そんなことにはなりません」
左議政は振り返らなかった。
「わかっている」
その一言を残して、マルを下りていった。
左議政が帰ったあと。私はしばらくサランチェにそのまま座っていた。
脚の力が抜けた。
正確に言えば——ようやく震えた。
「ソファ」
戸の外で待っていたソファが慌てて入ってきた。
「はい、お嬢様」
「水をちょうだい」
「はい」
「冷たいのを。すごく冷たいのを」
ソファはあわてて出ていった。
私は両手で顔を覆った。
本当に正気じゃない。
左議政に何て言ったんだ。
公平じゃない。
筆は置けない。
その家には入りたくない。
「ああ」
私はそのまま卓に額を打ちつけたくなった。
そのとき横から声がした。
「かっこよかったぞ」
顔を上げた。
ハン・ノアが笑っていた。
「公子様は静かにしていてください」
「どうして」
「今、自分がどれだけ大ごとをやらかしたか考えてるんですから」
「大ごと?」
「左議政大監に言い返しました」
「うん」
「しかも一回じゃなくて何度も」
「そうだったな」
「なのに、どうしてそんなに平然としてるんですか」
ノアが私の前に座った。
「祖父上が気に入ったときの顔を見たから」
私は瞬きをした。
「気に入られたって?」
「うん」
「私を? どこをですか」
ノアは少し考えた。
「言うことを聞かないところ」
「……」
「うちの家系なんだろう」
「私はハン氏じゃありません」
「十日後には——」
私はため息をついた。
でも少し笑ってしまった。
緊張がほどけたせいかもしれない。
しばらくして私が尋ねた。
「..本当に何もおっしゃいませんでしたね」
ノアが私を見た。
「息苦しくなかったか」
「死ぬかと思った」
笑いがこぼれた。
「特に筆を置けと言われたとき。あのときは本当に割り込むところだった」
「なぜこらえたんですか」
ノアはあまりにも当然のように言った。
「そなたが話していたから」
私は口を閉じた。
彼は何でもないことのように続けた。
「それに、俺が代わりに口を出した瞬間、祖父上の目にはそなたが俺の後ろにいる人間になる」
私はゆっくり彼を見た。
「それは嫌だった」
ノアが言った。
「そなたの横に立つと言っただろ」
私が言った言葉。
この人は私よりもっと正確に覚えていた。
後ろじゃない。
前でもない。
横。
「公子様。今日は少し」
うまく言葉が出なかった。
それでも言った。
「ありがとうございました」
ノアが瞬きをした。
本当に驚いた顔だった。
「そんなに驚くことですか」
「いや、その……」
彼が咳払いした。
「そなたの口からそんな言葉が出るとは思わなかった」
「取り消しましょうか」
「絶対に」
返事はとても速かった。
ノアが笑った。
「気分がいいな」
「顔に出さないでください」
「それは難しそうだ」
「どうしてです」
「好きな人から、ありがとうって言われたから」
私はすぐに立ち上がった。
「失礼します」
「また?」
「水を飲みに」
「水はこっちに来てるんだけど?」
ちょうどソファが盆を持って入ってきたところで止まった。
「……」
私はソファを見た。
「来たね」
私は水椀をひったくるように取った。
一気に飲んだ。
冷たい水が喉を流れたが、顔はまったく冷えなかった。
*
父上が私を呼んだのは、昼食後だった。
戸を開けて入ると、父上は窓辺に座っておられた。
前には紙も筆もなかった。
「座れ」
私は静かに向かいに座った。
何を言われるか、わかっていた。
朝、出しゃばりすぎた。左議政に無礼だった。
女が筆を置かないなどと、あそこまで露骨に言うべきではなかった。
父上の体面まで持ち出した。
叱られる理由は十分だった。
私は先に頭を下げた。
「朝のことは申し訳ありません」
「何がだ」
予想外の問いだった。
「私が大監にあまりにも……」
「おまえは間違ったことを言ったのか」
私は顔を上げた。
父上はいつもの顔だった。
無愛想で。
感情をあまり表に出さない顔。
「父上」
「おまえは、私から絵を習ったと言ったな」
心臓がどきりとした。
「それは……」
「いつ教えた」
やはり。
「申し訳ありません」
「盗み見たのも、学んだことだと言うなら」
父上が言った。
「それもまた、正しい言葉だろう」
私は瞬きをした。
父上が席を立った。
壁のほうへ歩き、古い長持ちを開けた。
そして小さな箱を取り出した。
私の前に置いた。
「開けてみろ」
そっとふたを開けた。
筆があった。古い筆。
筆柄の先には、小さな梅の花が彫られていた。
私はその文様を知っていた。
幼い頃。母上が手紙を書くとき、何度か見たことがあった。
「……母上のものですか」
「そうだ」
手を伸ばしかけて止まった。
「どうしてこれを私に……」
「おまえの母も絵を描いた」
私は父上を見た。初めて聞く話だった。
「上手ではなかった」
「……そのことを母上に言われたんですか?」
「言った」
「喧嘩になったでしょう」
「三日間、口をきいてくれなかった」
知らずに笑ってしまった。
父上の口元も、ほんのかすかに動いた。
「おまえが筆を持つのを初めて見た日は、おまえが七つのときだった」
頭の中が真っ白になった。
「では……」
「こっそり画室に入って、紙を盗んでいったのも知っていた」
「……」
「私の筆を壊したのも」
「それはソファが……」
「あのときソファは、まだうちに来ていない」
ああ。終わった。十年以上の嘘が今、ばれた。
「申し訳ありません」
「よい」
父上が筆を見た。
「最初は止めようとした」
声が低くなった。
「才能がなければ、むしろ楽だったろう。だが、おまえはどんどん上達した」
父上の指が箱の縁をゆっくりなぞった。
「だから、なおさら怖かった。才があれば、使いたくなるものだから」
母上の言葉がよみがえった。
『その筆で何をしようとしているのか、人が問うようになるのが問題なのだ』
「おまえの母が死ぬ前、ひとつ頼んできた」
父上の声がほんの少し掠れた。
「この子の手から、無理やり筆を奪わないでくれと」
私は何も言えなかった。
「だから、知らぬふりをした」
「……」
「おまえが隠すなら、隠すままで」
父上が私を見た。
「ただ、おまえが自分から世に出すと言うまで待った」
視界が少し滲んだ。
私は急いで頭を下げた。
「父上は」
声がうまく出なかった。
「私がこれからも描いても、よろしいですか」
父上はしばらく答えなかった。
それから言った。
「今日、おまえはもう答えただろう」
私は顔を上げた。
「私の許しがなくても、置く手ではあるまい」
「……ありません」
「ならよい」
父上は席を立った。
「代わりに、私の娘だと言ったのだから、下手では許さぬ」
私は笑いながら涙をぬぐった。
「左議政大監と同じことをおっしゃいます」
父上の顔がすぐにこわばった。
「あの人と私を一緒にするな」
さらに笑いがこみ上げた。
本当に久しぶりだった。父上の前で、こんなふうに笑うのは
私は箱の中の筆をそっと持ち上げた。
とても軽かった。
なのに不思議と、手に乗せると重かった。
母上の手が触れていたもの。
父上が何年も保管していたもの。
そして今、私の手に来た筆。
「大切に使います」
父上は答えなかった。
ただ、ほんの少しだけうなずいた。
日が暮れるころ。
私はマルに座って、新しい筆を眺めていた。
正確には、新しい筆ではなかった。
とても古い筆。
でも私にとっては、今日初めて手に入った筆だった。
「それが、その筆か」
横から声がした。
顔を上げる必要もなかった。
「公子様は、どうして人の家をそんなに自分の家みたいに歩き回るんですか」
「もうすぐ婿の家になるんだから」
「まだ十日あります」
ノアが私の横に座った。
「十日しかない」
私はもう一度筆を見下ろした。
ノアが尋ねた。
「義父上からもらったのか」
「まだ義父上ではありません」
「十日」
「その言葉をもう一回言ったら、婚礼を一日遅らせます」
ノアは口を閉じた。
効果は抜群だった。
しばらくして彼が筆を見た。
「いい筆だな」
「母が使っていたものです」
ノアの顔から少しだけいたずらっぽさが消えた。
「そうか」
「父上は知っておられたそうです」
「何を」
「私が絵を描いていることを」
「そうだと思った」
私は勢いよく顔を向けた。
「知ってたんですか」
「そなたは、隠すのが思ったより得意じゃない」
「私、何年もばれてませんでした」
「俺の顔を描いた掛け軸を、画室の引き出しに入れておいて?」
「ハン公子」
「わかった」
彼は笑って両手を上げた。
「その話はしない」
私は筆で彼の腕を軽くつついた。
ノアが筆を見ると尋ねた。
「それで俺の顔も描くのか」
「いいえ。山水画を描きます」
「俺は山より下か」
「比べる相手を選んでください」
「じゃあ花?」
「公子様」
「鳥?」
「少し静かにしてください」
彼は笑った。
私はため息をつきながら筆を箱に入れた。
ノアはしばらく黙っていた。
変だと思って横を見ると、私を見ていた。
「さっきの言葉。婚礼をしたいってやつ」
心臓がどきんと沈んだ。
あ。
それ、忘れていた。
いや。
忘れたふりをしていた。
「左議政大監の前で言ったことです」
「俺も聞いた」
私は視線をそらした。
「状況的に言っただけです」
「うん」
「誤解しないでください」
「しない」
「本当です」
「わかった」
あまりにも素直だ。
この人が素直だと、かえって不安になる。
「どうして笑うんですか」
「そなたが俺と婚礼したいって言ったから」
「……」
「長生きしてみるものだな」
「公子様」
「うん」
「さっき私がありがとうございましたと言ったのも、取り消します」
「それはだめだ」
「どうして」
「もう聞いた」
「じゃあ、婚礼したいと言ったのも、聞いたで終わりにしてください」
「それは十日後に現実になるから」
私は筆箱を持って立ち上がった。
「失礼します」
「どこへ」
「公子様のいないところへ」
ノアもつられて立ち上がった。
「一緒に行こう」
「どうしてです!」
「そなたのそばにいろと言っただろ」
「それは昨日!」
「いつまでとは言っていない」
私は止まった。
ノアも止まった。
「公子様」
「うん」
「ルールを一つ増やしましょうか」
「何だ」
「人の言葉の揚げ足を取らないこと」
「それは俺がかなり不利だな」
「だから入れるんです」
ノアが真面目に考えるふりをした。
「却下」
「どうして公子様に拒否権があるんですか」
「お互いに決めるルールだから」
もっともだ。
腹が立つ。
私は先に歩いた。ノアが後ろからついてきた。
数歩後彼がふいに言った。
「ㅇㅇ아」
「何ですか」
「今日、そなたが俺のそばに立つと言ったこと」
私は歩みを緩めた。
「そんなこと言ってませんけど」
「言った」
「いつですか」
「俺と婚礼したいと言ったとき」
私は振り返った。ノアは笑っていなかった。
「ありがとう」
今度は私が何も言えなかった。
彼が低く付け足した。
「俺が待つと言ったからって、そなたが必ず来なきゃならないわけじゃなかった」
胸が妙に痛んだ。
数年前、私は待っていた。
何も知らないまま
そして今、この人は待っていた。
私が振り返るか、また信じるか、そばに立つか押しつけずに。
私は唇を開いた。
「まだ全部は来ていません」
ノアがうなずいた。
「わかってる」
「まだ公子様に腹も立っていますし」
「それもわかってる」
「聞きたいこともたくさんあります」
「聞け」
「あとでです」
「うん」
私は彼を見た。
「それでも、少しは」
どうしてこんなに言葉が難しいのかわからない。
「進んでいる気がします」
ノアは何も言わなかった。
ただ私を見ていた。
でもその顔があまりに静かで、かえって気恥ずかしくなった。
「何か言ってください」
「言ったら、逃げるかと思って」
「……よくご存じで」
「だから我慢している」
私はふっと笑った。
そしてまた歩いた。
今度はノアはついてこなかった。
不思議に思って振り返った。
彼はその場に立っていた。
「来ないんですか?」
ノアの目が少し大きくなった。
私も言ってから気づいた。
あ。
私、今——一緒に来いって言ったな。
「どうしてそんな顔をするんです」
ノアの口元がゆっくり上がった。
「何でもない」
「笑わないでください」
「笑ってない」
「笑ってるじゃないですか」
「嬉しいから」
「もういいです。来ないでください」
「もう遅い」
ノアが大股で来て、私の横に立った。
本当に。この人は一度の隙も逃さない。
でも不思議と。今日はそれがあまり嫌じゃなかった。
*
その夜
ソファと、婚礼に持っていく物を整理していたときだった。
「これはお持ちになりますか?」
ソファが古い本を持ち上げた。
「うん」
「これもですか?」
「それも」
「では、この箱は……」
「それは置いていく」
一つずつ整理するたび、実感がわいた。
十日。この部屋で寝るのも、あと十回だ。
一生そのままだと思っていたものが、急に『置いていくもの』と『持っていくもの』に分かれ始めた。
「これもお持ちになりますか?」
ソファが小さな箱を持ち上げた。
私はすぐに取り上げた。
「それは私がやる」
「何ですか?」
「何でもない」
ハン・ノアの掛け軸だった。
ソファが目を細めた。
「怪しいですね」
「自分の荷物をまとめなさい」
「もう全部まとめました」
「なんでおまえのほうが早いんだ」
「私には隠し事がありませんから」
「……」
最近、こいつがやたら私に勝つ。
そのとき外で下人がソファを呼んだ。
しばらくして戻ってきたが、手には小さな封筒が一つあった。
「お嬢様。書簡が届きました」
私は何も考えず手を差し出した。
「誰から」
「それが……」
ソファが変な顔をした。
「送ってきた方が……」
私は封筒を受け取った。
見慣れない筆跡。
でも、封筒の下に書かれた名前は知っていた。
指先が止まった。
尹瑞蓮。
しばらく何も言えなかった。
「尹家のお嬢様ですか?」
ソファが慎重に尋ねた。私は答えなかった。
封筒を裏返した。
封蝋は無事だった。
「誰が持ってきたの」
「尹家の下人だそうです」
「今どこに」
「書簡だけ届けて、すぐ帰ったそうです」
心臓がゆっくり打ち始めた。
昼に左議政が言ったことがよみがえった。
『尹家は引いていない』
私は封を切った。
中には短い手紙が一枚入っていた。
整った字だった。
私は最初の一行を読み、そして動けなくなった。
ソファが私の顔をうかがった。
「お嬢様?」
私は手紙を少し近づけた。
内容は長くなかった。
『婚礼が十日後に決まったと聞きました。
その前に、一度お会いしたいです。
ハン公子様抜きで。
二人だけで話したいです。』
ここまでは予想できた。
問題は、その後だった。
私は最後の二行をもう一度読んだ。
『清国でハン公子様に何があったのか、
まだすべてお聞きになっていないようですので、お伝えします。』
指先が冷たくなった。
ソファが尋ねた。
「何て書いてあるんですか」
私は答えられなかった。手紙を見下ろした。
清国。ハン・ノアがまだ私に話していないこと。
尹瑞蓮が知っていること。
そして——
第三の約束
『互いに隠したいことを、無理に暴こうとしない』
だが、その後に付いた条件も覚えていた。
『俺が隠したことでそなたが傷つくなら
そなたが訊く前に俺が言う』
私はゆっくり手紙を折りたたんだ。
不思議だった。腹は立たなかった。
代わりに、はっきりした考えが一つ浮かんだ。
ハン・ノアに聞くか。
それとも
尹瑞蓮に先に会うか。
窓の外で風が吹いた。蝋燭の火が長く揺れた。
私は手の中の手紙を見つめた。
今朝、私は左議政の前で自分の立つ場所を言った。
ハン・ノアの後ろでも、誰かの下でもない場所。
なら、これも同じだ。
誰かが代わりに決めた話を聞きたいわけじゃない。
自分で確かめたかった。
あの人が去った何年もの間、私の知らないハン・ノアそして尹瑞蓮が知っているという話まで。
私は顔を上げた。
「明日、尹家に人をやって」
ソファの目が大きくなった。
「返事を送られるんですか?」
私はもう一度手紙を開いた。そして最後の一文を、もう一度読んだ。
「会うと言って」
今度は、逃げないつもりだった。
ハン・ノアにも、尹瑞蓮にも、そして私のまだ知らない話にも。
ただ一つ、手紙を折る瞬間にふと考えた。
ハン・ノア、あなたが約束した第三のルール。
今度こそ——
本当に守れるでしょう。
第8話 私の立つ場所 - 終
